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佐伯祐三は第二文化村周辺がお好き。 [気になる下落合]

 もう1枚、佐伯祐三の「下落合風景」作品が手に入ったので、ひきつづき描画場所の特定Click!を試みたい。ゆるやかな坂道がつづき、もうすぐ尾根筋に近いのだろうか、正面には西洋館の2階らしい建物が見えている。坂道が右へとゆるやかにカーブしているので、正面の建物は道の左手に建っている可能性が高い。右手にはこじんまりとした洋風和風の建物が並び、中央の樹木の陰にも家が隠れているのがわかる。
 ゆるやかな坂道の手前には、左へと曲がる道があるようだ。でも、この道は右へそのまま突っ切ってないので、十字路ではなくT字路であることがわかる。左側には雑木林が拡がっていて、赤い屋根の小さな小屋のような建物が見えている。相変わらず、佐伯が描く下落合の空は、どんよりと曇っていて憂鬱だ。1926年(大正15)9月の作品といわれる、佐伯祐三の『道(下落合風景)』(個人蔵)は、以下のような場所を描いている。

 この風景を、1936年(昭和11)に陸軍航空隊によって撮影された落合町の空中写真へ重ねてみると、現在の下落合側(旧・下落合1~2丁目)には、ここに見られる右カーブの、少し広めでゆるやかな坂道に沿った家の配置は存在しない。現・下落合のバッケ(崖線)尾根に近い坂道は、当時、大倉山や相馬子爵邸(御留山)、学習院昭和寮と、道の右側が森林で覆われている場所がほとんどで、このように家々が建ち並ぶ環境ではなかった。久七坂が通う尾根筋かとも考えたが、空中写真を細かく観察しても、左折する道と建物がこのような位置関係にある場所は存在しない。
 とすると、このだらだら坂は旧・下落合3~4丁目(現・中落合/中井2丁目)、つまり佐伯祐三が頻繁に足を向けていた目白文化村Click!とその周辺の可能性が非常に高い。佐伯が特に好んで描いているのは、第二文化村周辺(中落合)と、林芙美子が“ムウドンの丘”Click!と名づけた中井2丁目の坂道だ。ついでに、改正道路(山手通り)が貫通する前の、翠ヶ丘ならびに赤土山の南斜面とともに、いまの十三間通り(新目白通り)側から見た北斜面も検討しなければならない。ただし、中井駅北側の坂道のうち、三ノ坂から西側は田畑が多く、佐伯がこの絵を描いてから10年後の1936年(昭和11)でさえ、このような住宅環境にはなかったことは、これまでに何度か触れてきたとおりだ。
 だが、上記の坂道をひとつひとつ細かく調べていっても、この絵に該当する穏やかな右カーブの坂道は存在しなかった。よく一致する風景が1箇所、一ノ坂の下に見えるけれど、これを一ノ坂だと仮定すると、前方により急な崖線がせり上がっていなければならない。二ノ坂の場合だと、崖線はやや右手にせり上がるが、このような坂道および家々は存在しない。バッケ(目白崖線)の南斜面に刻まれた、すべての坂道を検討してみたが、該当する坂道は見つからなかった。崖線へ深く食い込む、谷戸地形の坂まで調べたけれど、このような場所は見当たらず、さすがに途方に暮れてしまった。
 
 そこで、目白文化村にお住まいの方へ、絵を見ていただいて相談したところ、「ここじゃないか?」と指摘された場所があった。こんなところにダラダラ坂があったのかと、わたし自身にも意外だったのだが、第二文化村のすぐ北側を走る道、現在の中落合4丁目、落合第二中学校が間近に見える道だ。さっそく、昭和初期の空中写真で調べてみると、これがピタリと一致した。念のために、現場を訪れて検証すると、現在は風景が一変しているし、坂の勾配もアスファルトなどで修正されて昔ほど角度がなくなっているが、確かに『道(下落合風景)』の風情を感じさせる、右カーブのゆるやかな坂道が存在していた。ちょうど、佐伯が生きていた当時の地番でいうと、下落合1567番地あたりだ。
 昭和初期、この絵に描かれた坂道の左手の枠外には、下落合でも有数の火の見櫓が建っていた。左手に見える赤い屋根の小屋状のものは、火の見櫓に詰める消防員の休息施設の可能性がある。現在のこの一画は、交番と区の施設として利用されている。また、右手に見えている竹垣の家は、1926年(大正15)現在の宇田川邸だ。2つの空中写真にもはっきり写っているが、坂道を登りきったあたりにある2階建ての家は、1926年(大正15)の早い時期には存在しなかったようで、地割りによる敷地化はなされているが、住民の記載が見当たらない。ちょうど、佐伯がこの絵を描いたころに完成し、住民が入居したのではないかと思われる。
 
 佐伯祐三は、どうやら目白文化村とその周辺に拡がる風景に、強く惹きつけられていたようだ。直接、目白文化村の中を描いた作品としては、落合小学校(落合第一小)へ寄贈され、いまは新宿歴史博物館で管理されている、第二文化村のテニスコートを描いた『下落合風景』Click!と、菊の湯の煙突が見えている第三文化村から眺めた『下落合風景』Click!の2点がある。他の作品は目白文化村の周辺を歩きまわりながら、気に入った風景に出会うとつど立ちどまり、キャンバスを拡げていた・・・という印象が強い。
 第二文化村の北辺も、1945年(昭和20)4月13日の空襲で焼けている。火の見櫓も焼失し、坂の右手に建っていた家々も焼けているが、坂道を上りきった正面に見えてる2階建ての洋風住宅は、道を隔ててかろうじて延焼をまぬがれている。では、上空から眺めた落合町の空中写真に、13番目の「下落合風景」描画ポイントClick!を記載しよう。
その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。

■写真上:1926年(大正15)の9月に描かれたと伝えられる、佐伯祐三『道(下落合風景)』。
■写真中は作品が描かれた10年後の、1936年(昭和11)の空中写真。左手に雑木林が拡がっているのが見えるが、赤い屋根の建物までは確認できない。は、1947年(昭和22)の同坂。火の見櫓は焼失し、作品に見える右手の家々も全焼している。
■写真下は、右へとカーブする現在のダラダラ坂。土やアスファルトで整地され、勾配が昔ほどではないのがわかる。は、いまだに屋敷森が多く残る、第二文化村の遠景。
 



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NO NAME

この前“赤い”コメントさせていただきましたものです。
またまた異論を差し挟んで申し訳ありません。
この風景は私の幼いころ住んでいた家の風景です。今はもう新目白通りに削られなくなってしまった懐かしい風景です。場所は下落合1360番地付近です。石の階段の上の家は確か漫画家の永田竹丸さんの実家です。私の祖父の洋館の下宿とか、借家とかが何軒かその後ろにあり、また背後に見える林も存在していました。
それから、左の道のように見えるのは、道を挟んだ向こう側家のアプローチでした。正面の道はゆるい上り坂で、道のもっと先には石橋湛山邸があります。その手前にも文化村創成期のモダンな家が何軒かありました。もう40年も前の記憶ですがこの風景は間違いないです。
by NO NAME (2006-05-08 23:30) 

ChinchikoPapa

NO MAMEさん、コメントをありがとうございます。
さっそく、1936年(昭和11/上)と1947年(昭和22/下)の空中写真を、記事末に掲載しました。うーーん、佐伯が描いたような道は、下落合1360番地とその周辺にはないように思うのですが・・・。上(1936年)の写真で、黄色く囲んだところが下落合1360番地です。その左(西)が1361番地界隈、右(東)が1322番地、上(北)の第一文化村にかかるあたりが1321番地となります。
新目白通りに削られたと書かれていますので、この写真に写る下の道ではないかと思うのですが、ゆるやかな上りとなる第二文化村方向を想定しますと、カーブが逆になってしまいます。このだらだら坂を左手(西)へと上りますと、第二文化村南端の道、以前もこちらで紹介しました日露戦争の203高地攻略戦参謀のお宅(戦後はT邸)を左手に、ほどなく画家・宮本恒平邸の突き出たスギの大樹を右手に見ながら、やがて第二文化村にあったテニスコート(右手)に行き当たります。
石橋湛山邸は、門がある道を想定しますと、この道の2本内側の道、つまり第一文化村の「弁天通り」から直角に曲がり、第二文化村へと一気に抜けることができた「センター通り」沿いとなってしまうのですが・・・。
by ChinchikoPapa (2006-05-09 12:32) 

ChinchikoPapa

最近、つくづく佐伯祐三の『下落合風景全画集』がほしい、わたしです。それも、朝日新聞社の『全画集』のような大判のものではなく、以前、すー@上落合さんにお教えいただいた、日本経済新聞社の図録(地図帳ぐらいです)のサイズが持ち歩きにはとても便利です。
いちいちPCの画像を参照するのがおっくうになり、最近はカラープリントをしていつも持ち歩くようになってしまいました。(^^; サブノートPCでも、持ち歩いて起動するのが面倒なのです。下落合を歩きながら、おもむろにバッグから『下落合風景』のカラープリントの束を取り出したりすると、周囲の人たちから、かなり怪訝な顔をされつつ呆れられています。
『下落合風景全画集』は、どこからも出そうもありませんので、自分で私家版を作ってしまおうか・・・と思い始めているこのごろです。
by ChinchikoPapa (2006-05-09 12:51) 

ChinchikoPapa

うーん、ものたがひさんご指摘の道は、わたしには直線ないしはやや左へカーブ気味に見えてしまいます。上の写真で、膨らんで見える箇所は、生垣あるいは屋敷の樹木のせいではないでしょうか? 第二文化村へ向けて、だらだらの上り坂であったことは間違いないと思いますが・・・。
それから、第一文化村の水道タンクの北側は、東側へ突き出た第一文化村の住宅敷地となっていましたので、上写真の道路近くで光っているものではないように思います。
by ChinchikoPapa (2006-05-09 21:19) 

ChinchikoPapa

明日、「下落合事情明細図」の同坂道の部分を拡大して、写真の下に参考資料として載せてみます。豊島区側の「事情明細図」や「住宅明細図」も同様でしょうが、フリーハンドですので距離の縮尺比率は不正確なものの、実際に歩いて各住宅や道路の情報を記録しているせいか、その実見や印象から、意外に形状が正しい場合があります。「下落合事情明細図」の当該道路は、明らかにゆるやかな左カーブとして描かれています。
「目白文化村分譲地割図」(「下落合事情明細図」もそうですが)は、下の道へと抜ける縦の道ではなく、スペースとして描かれたものと解釈します。1936年(昭和11)の空中写真に見えている右手の南北にまっすぐな道は、もう1本北側を走る第一文化村の東西の道と下の左カーブの道を結ぶため、のちに拓かれた道か、あるいは住民たちが踏み固めてしまった道だと思います。なぜなら、大正14年の「目白文化村分譲地割図」でも大正15年の「下落合事情明細図」でも、この道は存在していないからです。
by ChinchikoPapa (2006-05-10 01:09) 

ChinchikoPapa

すみません、おそらくわたしの読解力と理解力が足りないせいだと思います。正直、ご指摘のテーマがよくわかりません。

> この「下落合事情明細図」で、私が違和感をもつのは、タンクのあるスペー
> スなり道なりが、ギル邸東から北上する道より東寄りになっていることです。

わたしが「下落合事情明細図」(大正15年10月10日発行)を見る限り、タンクの位置は、ギル邸の東接道と左カーブの道が出合うポイント(T字路)、およびギル邸の西接道と左カーブの道が出合うポイント(T字路)の、ちょうど中間点の北側に描かれています。つまり、ご指摘の「ギル邸東から北上する道」よりも、西寄りの地点です。
わたしの観察では、「下落合事情明細図」の描きこみは、実際の空中写真に写る位置に、「ほぼ照合しているよね」というように解釈できるのですが・・・。
by ChinchikoPapa (2006-05-14 18:38) 

ChinchikoPapa

> こんなに太い道/スペースはなく、タンクのタの字の上の道からタムカヒ
> さんのヒの字を通って左カーブの道に到る普通の道(少しは広めかもし
> れませんが)が、あったのでしょう、といいたいのです。

わたしもこの幅広の道(?)は、「下落合事情明細図」の描画の誤りだと思います。第一文化村のタンクは、地元の方の証言から「原っぱの上にあった」というのを聞いてましたので、最初から道(?)の上ではなく、草原の上を探しました。ただし、詳細図に描かれたタンクの左右にある、いずれかのスペースが道だったかどうかまでは、わたしには判断がつきません。

> いろいろな地割図、オルタネイト・テイクの図、すべてにある、ギル邸から
> 北上する二つの道の間から始まる道と基本的に同一であり、「のちに拓
> かれた道か、あるいは住民たちが踏み固めてしまった道」は、存在しない
> と思うのです。

ここを読んで、ものたがひさんのご指摘の趣旨がわかりました。ギル邸の東西接道が左カーブの道へT字状に突き当たり、その中間から北上する道のことをおっしゃっていて、この道が箱根土地本社敷地の東面境界とほぼ合一であり、当初からの道ではないかということ。そして、文化村の地割図や空中写真を参照しますと、箱根土地本社の南にある行き止まりの道、そしてさらに南にある2本目の道を考慮すれば、この2本目のカギの字状に曲がって南へとつづいている道こそが、ものたがひさんご指摘の道であること・・・という認識でよろしいでしょうか?
いろいろな資料をつき合わせて見ますと、確かにものたがひさんのおっしゃる通りですね。すみません、わたしの解釈ミスです。この道が、「事情明細図」の「く」の字型に曲がる道状のものだとすると、では次に「原っぱの上」にあったとされるタンクは、どこにあったのか・・・というご指摘のテーマになります。

> 1360番地の東の1322番地にある家々は、文化村ではないはずです。『目
> 白文化村』の221・108頁の図と重ねて考えられると思います。

はい、のちほどもう一度、『目白文化村』に掲載の図面に絡めて触れますが、これはおっしゃるように第一文化村のエリアではありません。

> 落合町の給水新設工事請求者は、昭和3年度は556件に過ぎませんが、
> 順次増えている事でしょう。文化村では、いつまでタンクを使っていたので
> しょう?いつまで、あったのでしょう?

すみません、わたしはそこまで調べ切れていません。第一文化村に荒玉水道がいつ引かれ、それによって第一文化村の水道タンクの役割がいつ終わったのか(いえ、いつ第一文化村の水道タンクの設備一式が実際に撤去されたのかが、このテーマの本質的な問題ですね)、わたしの手元には残念ながら、取材の証言や地元の資料も存在しませんので、残念ながらわかりません。

> 描画地点20番の「タンク」の場所に、1937年には、家が建っています(例の
> 本の221頁)。この家のシルエット、1936年の写真の同位置にあるものと、
> かなり似ています。

221ページの図面では、左側(西側)に明らかにスペースがあり、水道タンク設備のスペースと取れないこともありません。1936年(昭和11)の空中写真を見ますと、このスペースにもなんらかの建造物があるように見えますが、それが第二文化村の水道タンクだ・・・と確実に言い切る資料も証言も、わたしは残念ながら持ちあわせていません。

> ま、「タンク」の絵の描画ポイント自体には関係ないですから、この問題も些
> 細と言えば些細ですが、niceな「タンク」の説明に、幻のタンクと器械室を書
> き込んではイヤ!ということです。

幻かどうかは、わたしにはにわかに判断がつきませんが、ものたがひさんのコメントを拝見してつくづく感じますのは、わたしの力量不足と不適任さです。週末にわずかな時間を設けて取材したり調べるだけでは、おのずと限界があり、証言などをもとにした「仮説」に対する“裏取り”を要求されますと、より突っ込んだデータを完全に揃えることはできません。わたしには、わからない、あるいは判然としない・・・としかお答えのしようがありません。かろうじて、地元の方の証言(80年前だから曖昧かもしれませんが)と、手元にあるあまり豊富ではない資料類に頼って書かざるをえなくなってしまいます。以前にも、何度か書きましたが、おそらく誤りや勘違いの箇所は多々あるかと思います。
これは、文化村に限らず下落合のテーマについてもまったく同様で、たとえば「F.L.ライトの伝承」のお宅もそうですし、「旧・戸田邸の一部移築」も「ギル邸のモッコウバラ」も、最近の「李香蘭」などもすべて、たとえば大橋が40m川上に移動して元柳橋の町をつぶしたとか、昌平橋と萬代橋がいつ建て替えられたか・・・というテーマなどに比べれば、おおよそまったく“裏取り”がない、つまり別の角度からそれを証明する客観的な資料やデータの裏づけができていない、地元の証言者の言葉だけ・・・ということになります。
以前、90年代の後半あたりでしょうか、下落合にはタヌキがたくさん棲んでる・・・とある方に話したら、「東京の新宿に、タヌキが棲息できる生態系があるわけがない」と一蹴されてしまいました。2002年ごろ、子連れのタヌキが歩いていたとの目撃談を話しても、冷笑されるだけでした。つまり、このケースだと糞なり抜け毛なり、あるいは柿の実の歯型など“裏付け”による科学的な証拠がないと、下落合のタヌキは「存在しない」・・・ということになります。わたしは当時もいまも、写真なら手元にいくらかありますが、その“物的証拠”をどこからか探し出して提示する余裕がありません。たまたま、ご当人(当狸)たちがノコノコ出てきたので、ようやくその「存在」が認知されましたけれど。(笑)
余談ですが、いまちょうど調べていたテーマに、吉屋信子があります。彼女がカミングアウトしてC女史と同棲し、下落合の丘を(洋館ばかり好んで)転々として、最後にようやく、中井の南斜面にバンガロー風の自宅を建てて落ち着いた・・・という引っ越しルートも、地元の方の証言をつなぎ合わせて辿っているだけで、当時の借家の契約書や、いつその借家が解体されて次の建物が建てられたのか・・・などということまでは、わたしには突っ込んで調べている余裕も手段もないのです。単なる地元の伝承(記憶が薄れがちな昔のこととはいえ、わたしには重要だと思われるのですが)をもとに、手元にある貧弱な資料類と見比べつつ、ああでもないこうでもないと想定しているにすぎません。残念ながら、わたしには本格的な調査をする時間の余裕も活動資金も力もない・・・ということに尽きると思います。
たかが、ごく私的で卑近なブログとはいえ、先日のものたがひさんの後々まで記録が「残る」ということを考え合わせますと、いまさらながら少々怖さをおぼえました。時間も資金も、専門的な知識もないわたしが誤った、あるいは誤っているかもしれない裏付けの取れない情報を、いくら「地元の記憶」とはいえ客観的な検証を経ずに掲載するよりは、調査時間と資金とが潤沢にあるきちんとした専門の研究者や学者におまかせしたほうが安全で確実だ・・・と考えます。わたしの現状では、下落合の伝承やテーマは、どうやら荷がかちすぎるようです。

> 西武電気鉄道があっても、もっと前の状態では、とは思っていましたが。これだ
> けの広さが一気に調べられるとも考えられませんが、1年近く調査にかけてい
> たという事ですね。

以前にも触れましたが、「事情明細図」は、おそらく取材から作成へのタイムラグが、かなりあるのではないかと思います。隣接する高田町や戸塚町の「事情明細図」あるいは「住宅明細図」は、なんとなく同一表現を感じますので、ひょっとするとすべて「東京市町事情研究会」の同一チームの仕事かもしれないですね。ものすごくタイヘンな、根気のいる作業だったと思いますが。(笑)

> 販売開始時の第2文化村ではないけれども、後から追加された文化村なのでしょ
> うか。そう考えないと、『目白文化村』の221頁(1937年)・229頁(1963年)で、取
> 上げられた理由が分かりません。

いえ、これらの図面は文化村に限らず、一帯の洋風建築と和風建築との比率、空襲による焼失家屋と残存家屋との対比を表現するために作成しているのでしょうから、文化村のみではなく、その外周部も含めているのではないか・・・と捉えます。もっとも、執筆者に確認したわけではありませんので、わたしのあくまでも想定にすぎないですが。

・・・ということで、わたしのブログに関する、これまでの総括的な文章を及ばずながら先ほど上げてみました。けっこうお気軽に始めた、わたしの身のまわりの取材ブログが、知らないうちにわたしの想いを超えて「肥大化」し、かつひとり歩きをし始め、わたしの活用できる時間範囲と、素人の能力ではフォローしきれない領域にまで、知らず踏み込んでしまったようです。
自身の表現した文章ですから、最後まで責任を持たなければならないのは当然ですが、なんともわたしの現状では対応のしようのない点のご指摘を受けても、「わかりません」「判然としません」としかお答えのしようがないマズさを痛感します。そのありようやスタンスが、力およばず脆弱なものだと改めて気づきましたので、改めてこのサイトのレゾンデートル(懐かしい!/爆)などを、しばらく考えてみたいと思います。
by ChinchikoPapa (2006-05-16 00:27) 

ものたがひ

好きなブログはいろいろありますが、コメントしようとした事はありませんでした。私のプライベートな部分だけで受け止めているからだと思います。
C.P.樣のブログは、個の部分と公共的な問題が、しなやかに繋がっているのが魅力なのだと、今更ながら気づきました。
しかし、私の中での「肥大化」は、殆ど私の一般的ではない愚かな在り方によるものですから、どうぞ、もう、お気になさらないで下さい。反省の弁を、名付け親の(?)渡邊一夫に代読してもらう工事をいたしました。
大正・昭和、このあたりの地域の事を考える事と、吉田満を考える事が重なっています。
by ものたがひ (2006-05-18 12:45) 

ChinchikoPapa

お見苦しいスパムを掲載したままにして、すみません。<(_ _)> ほんの少しブログを留守にしますと、嫌なスパムが相変わらずすごいですね。ご丁寧なリプライをありがとうございました。
ちょっと、一連のテーマからスライドしてしまうのを承知で、少し書かせてください。わたしのブログの意味や位置づけ・・・的なことをこの際、改めてまとめてみたいと思います。
わたしのブログの内容と、専門の方とのギャップあるいは乖離は、たとえば「ライト伝承のお宅」でもF.L.ライトの“権威”の方からご意見をいただきましたように、かなり明らかです。「地元」と「アカデミズム」という構図では、わたしはどうしても「地元」の伝承を優先・選択してしまいます。いつでしたか書いたかもしれませんが、アカデミズムの「定説」や「常識」とは違ったところで、地元に息づいている情報を間違いなくわたしは優先します。ここに、“ためらい”は存在しません。専門家やアカデミズムがなんと言おうが、(当初は)したり顔で否定しようが、下落合にはタヌキが棲息しているし、下落合から発見された鉄剣(刀)は新宿歴史博物館に展示されている1振りではなく、何振りも存在しているし、旧・前田子爵邸を移築したと伝えられる建物は、家紋や遺物が解体時に発見されたとおり、事実なのでしょう。
専門家やアカデミズムの方々は、自説をさまざまなメディア(出版やマスコミ等)を通じて広く認知させる手段を所有しているのに対し、地元で語り継がれるささやかな物語は、それを多くの人たちに伝える媒体を持ちません。見方を変えれば、専門家やアカデミズムから一方的に流されつづける圧倒的な情報量の中で、たまたまそうではない視座、おうおうにして専門家やアカデミズムとは異なる説が横溢している地元の視座から、それらの貴重な(とわたしには思われる)伝承をいくらかでもすくい上げようとするとき、改めてアカデミズムや専門家の説とセットにして、つまり従来の「定説」や「常識」を踏まえて、“バランス”をとりながら文章を記述する必要など、さらさらないと考えます。もともとの情報量に圧倒的な差があり、「定説」や「常識」優位のひどくアンバランスな状況の中で、たまたまアカデミズムではなく地元の視点からのみ取り上げた、つたない本サイトぐらいでは、まだまだとてもそのアンバランス状況は変わらない・・・と感じます。換言すれば、少しでも情報“バランス”を取るために、アカデミズム(中央)の「定説」や「常識」とはまったく無縁な視点(地域)からのみ、つまらない内容ではありますが、本サイトは一貫して構成されてしかるべきではないのか?・・・とさえ思います。これが、このブログの経糸だと、わたしは考えています。
余談ですが、「Web2.0」環境があたりまえの状況となることに、専門家やアカデミズムは少なからず脅威を覚えているはずです。いや、これは従来型メディアで情報を独占し、一方的に流してきたあらゆる表現者全員=「こちら側」の人々が、大なり小なり恐怖していることに違いありません。(『ウェブ進化論』梅田望夫/筑摩書房)
さて、もうひとつ、別の側面からの課題で、逆に“ためらい”を感じてしまう部分というのが、ものたがひさん提起の“裏取り”の部分なのです。改めて、わたし自身も気づくことができた重要な課題でもあります。(そういう意味では、ご指摘ありがとうございました。感謝申し上げます>ものたがひさん) つまり、事実を証明できるデータや資料を取材しようと思えば、わたしの立場でもあえて「可能」な範囲のところの問題をどうするか・・・というテーマなのですね。
わたしには「可能」だと思われるけれど、でも、現状ではとてもそこまでは手がまわらない・・・という部分の問題をどうするのか? つまり、記事の正確を期すためには、少しずつ時間を見つけて“裏取り”を重ね、ほぼ間違いがない・・・とはっきり確信が持てたと判断した時点でアップするという手法にした場合、現実的に考えて、月に、いや年にいったい何本の記事をアップできるのだろうか?・・・という点です。それよりは、素材としての地元の伝承や資料を少しでも集め、あるいはわたしの手持ちの情報を正誤はともかく、できるだけより多く公表したほうがよいのではないか?・・・、という想いとの相克ですね。
なにやら、「水道タンク」の1936年(昭和11)現在の有無とは、ちょっと離れてしまった課題ですけれど、ものたがひさんのご指摘と、それに対するリプライを書かせていただいているうちに、その重要性に改めて気づかされたしだいです。ちょっと、ボンヤリですみません。<(__;)> このテーマ、丸1日以上かけて考えてみましたけれど、なかなか結論が出せません。もう少し、自問してみます。
by ChinchikoPapa (2006-05-18 15:39) 

ChinchikoPapa

あれ、朝まであった、ものたがひさんのコメントが・・・。(^^;
by ChinchikoPapa (2006-05-18 16:04) 

ものたがひ

こんにちは、C.P.さま。あの、自分の発言に責任を…という観点からは、宜しくなかったです。消去したコメントは、素材としてC.P.さまに差し上げたものとして、お取り扱い下さい。これらを佐伯の御考察の中で料理なさったとしても、「ものたがひの指摘による」等、記して下さる御配慮は不要です。お天気調べも、小学生にでも出来るのですよ〜。奴ら、ヒマです(^^)。
私は、伝承をアップすること自体に問題はない、というか積極的に必要なのではないかと思っています。伝承と、C.P.さまの判断・仮説部分が識別できることは、大切でも。そして判断は、公開し情報が増えることによって精度を増していく…。私には、これは今日的で正統的な学究の方法に思えるのですが。
でも、学問のためにブログがある訳ではないですね!そのへんの、ゆるさの面白さも、今日的。
ところで、「第一文化村のタンクは、地元の方の証言から『原っぱの上にあった』」ということを初めて伺って立てた、私の仮説。文化村の子供達(証言された方は子供の時の記憶を辿っているのではないか、と考え…)にとって、道というのは大谷石の縁石に縁取られたものだった。地境の石がどこかに埋め込まれていても、隣接する原っぱと一つになった遊び場は、原っぱとしか見えない…。
by ものたがひ (2006-05-19 15:30) 

ChinchikoPapa

渡邉一夫の『狂気について』(岩波文庫/青帯)、打ち合わせの帰りに書店をいくつか探したのですが、見つかりませんでした。不勉強にも、この方の著作は一度も読んだことがありません。いま、品切れでしょうか?
きょう、仕事をしていて気づくことがありまして(ネットの中の出来事ですが)、わたしのブログとちょっと結びつけて考えるきっかけをもらいました。あるWebサイトのコーディング作業をチェック中に、複数のルート(複数人のWebプログラマー)から修正が加えられ、あっという間にサイト全体が完成形に近づいていくのを、リアルタイムで目撃しました。つまり、ひとつのサイトをひとりのWebデザイナー兼コーディネーターではなく、あちこちにいる複数のコーディネーターが役割分担を決めたあと、寄ってたかって一斉にコーディングする・・・というアライアンス(協働)体制によるものです。(根っからの文科系なのに、妙な仕事してますでしょう?/汗)
ブログ(日記)は残念ながら、単独で考えるうえにおいては、非常に個人的で閉じたメディアなので、上記のようなことはまったく不可能なのですが、でも少なくともコメントとトラックバックという双方向性は確保されています。わたしの当初のブログに対する考え方、すなわちヘッダー部分にも書きましたが、わたしの周囲で起きる私的な出来事を記述していく・・・という考え方(「負け犬さんのシネマレビュー」を唯一の例外として)から、どうやらスタート時のわたしの想いとは裏腹に、「わたし」ではなく「目白・下落合」の地域サイトだと思われている方が増えているような気がします。(あくまでも「わたし」が捉えた目白・下落合という街にすぎないですし、別掲のトップページにもそのように表記したのですが・・・) そういう観点から、改めてこのブログを眺めてみますと、わたしひとりが勝手に言いたい放題で(可能かもしれない“裏取り”も不十分なままに)こしらえているのが、ある意味“怖くなる”という感覚につながってきます。
わたしのブログ(日記)であるはずなのに、わたしのブログではないような感覚。ブログが“ひとり歩き”をし始めて、わたしが置いてきぼりを喰っているような感覚。「わたしのブログ(日記)なんだよ!」という想いから、貴重なご意見をお寄せいただいた、NO NAMEさんのたとえば右カーブ/左カーブの『下落合風景』の描画ポイントについて、ことさら必要以上に強くコメントをお返ししてしまったあたり(ものたがひさんにもありました/汗)、この「わたし」とブログとの乖離感を無意識に埋めるための、「わたしのブログなんだから好きなように書かせてよ!」という、きわめて小児的かつ感情的なコトバの発露ではなかったか・・・と、いまさらながら猛反省しています。すみませんでした。<(__)>ペコリ
わたしの友人やご近所の知り合いの間だけで閲覧する、「お楽しみサイト」的な考え方で始めたわけですけれど、4月に入ってみるみる30万アクセスを超えていくのを見るにつけ、また、まったく想定外のことが次々と起き始めていたせいもあり、ちょっと上記の想いをベースに焦りと混乱を感じていたせいもありました。
こうなったら(なにが「こう」なのかは不明確ですが/汗)、わたしは「ブログ=私的な日記空間」と一般的に解釈されている概念をとりあえず棄てます。わたしのブログであり、管理権は間違いなくわたしにあるのですが、ここのテーマに興味をお持ちになり、アクセスして貴重なコメントをお寄せくださる“みなさんのサイト”でもあり、先の例でいえばアライアンス(協働)できるところはどんどんしていこう・・・という側面を付け加えて、改めてこのブログ(サイト)を捉え直してみたいと思います。でも、わたしができる作業量には自ずと限界がありますので、たくさんのご要望にはお応えできないかもしれませんが・・・。
つきましては、ものたがひさんがご指摘の部分をもう一度整理して、来週からでも少しずつ当該箇所を修正していきたいと考えています。ただし、わたしと負け犬さんが、好き勝手に“書き散らす”余地は残させてください。(^^;
by ChinchikoPapa (2006-05-19 19:49) 

ものたがひ

第1信。岩波文庫の『狂気について』は品切重版未定ですが、今調べた所、amazonで複数扱っていました。自分の言葉で語らない私の横着に、斯くもお付合い下さり恐縮です。第2信は長くなりそうなので、まず送信いたします。
by ものたがひ (2006-05-19 22:14) 

ものたがひ

第2信。3月の末に、C.P.さまのブログを読み始めて直に1930年問題に逢着し、茫然といたしました。私の中のオトナは、黙って去れば良いのだよ、と告げましたが、ほんの一部にせよ、もうブログを読んでしまい、その質の高さに気づいていた私の中の何かが、放置できない、と言い出したのです。多くの方々が、信頼し、また楽しんで読んでいるであろうことも感じました。
ただ、ブログという一国一城の主の居る世界に、どう入れば良いのか、全く未知のことで、手探り状態がつづくのですが。
協働体制は、確かに、多角的な検討を要する作業において有効です。はじめに、区境を越えて協力しませんか、というメッセージをお送りしたつもりだったのに、お一人でこれだけのブログを作り上げている方には届かなかったな、と思っていました。
C.P.さまの、佐伯の描画地点特定作業に、私自身がこれ程まで夢中になるとは、自分でも想定外でした。でも、『曇日』など、本当に特定出来ているのですもの!間接的な推論の積み重ねという方法論しかとれなくても、これだけ重なれば確信出来る、という質を、自分の検討項目も加えて見出した時、きっと私の中の「肥大化」が始まったのです。そして失礼の域に踏み込んでしまった事、改めてお詫び申し上げます。
今までの私のコメントは、しかし、私にとっては協働作業の賜物でもありました。ブログを読み、私にとって未知の事や誤認している事を教えてもらい、C.P.さまに足りないものをお知らせする訳ですから。一方で、段々一方的に指摘している様になってしまうコメントにフェアでない感じを持ち、苦痛になってもいました。
先程、提案して下さったアライアンスが、どうしたら上手く機能するのか、今一つイメージできないのですが、協働できるものでしたら、何かさせて下さい(私の中に潜む「病謀向物違」を、怖れつつも)。
…でも、私は、C.P.さま達が「書き散らす」ブログ・ワールドのファンでもあるのですよ!他の方々も、そうではないでしょうか。「わたし」が「地域」にひろがり、「歴史」にひろがるというあり方、歩調のもつなにかに惹かれるのに、異質な世界が始まりませんか?それとも、新しい試みを含んで、C.P.さまは、もっと寄り道も楽しみながら歩くのでしょうか。
by ものたがひ (2006-05-20 01:05) 

ChinchikoPapa

情報をありがとうございます。岩波文庫の『狂気について』、さっそくAmazonから注文しました。ときどき、品切れでもデータベースの更新が間に合わず、そのまま注文可能にしている書籍もありますので、Amazonの反応を待ってみます。
「アライアンス(協働)」という言い方が適しているのかどうか、わたしが勝手にそう呼んでいるだけなのですが(笑)、ものたがひさんをはじめ、どなたかに内容に関するご指摘を受けた場合、いままでのわたしは、それが以前に書かれたページだとすれば「過去のページ(日記)」として捉えていたせいか、特にページをいじろうとは思いませんでした。新たな事実が判明したとき、あるいは明らかな錯誤がわたし自身で調べられて、あるいはご指摘を受けて判明した場合には、新規にページをこしらえて「過去のページ」へかぶせる形式で追加あるいは修正の記事をアップしてきました。(ライト伝承の旧・杉邸などが典型ケースですね) でも、この方式ですと、常に日々新しいページのみを、順を追ってブログ(日記)として読まれている方には不自然なく通じるのですが、過去のページへいきなりたどり着かれてしまう方の場合(検索エンジンなどから来られた方のケース)には、誤った情報や誤解を与えたままになりかねない可能性があります。いくら、新たに書いた修正や追加のページからトラックバックの設定がなされていても、それに気づかれなければそのままになってしまいます。これは、過去・現在に関係なく、いつでも参照できる「地域サイト」として捉えるとすれば、当然マズイということになります。
たとえば、「タンク」のケースで、ものたがひさんがご指摘くださったテーマを例にして考えるとよくわかります。このあとしばらくして、いつタンクが撤去されたのかその時期がはっきり判明し、新たな追加ページを書いたとして(トラックバックはするにせよ)、いままでは以前のページは「過去記事」としてそのままにしてきましたから、新たなわたしの追加ページに気づかなければ、当然1936年現在でもタンクは「ここにあった」と、わたしが写真に設定した位置として認識されると思います。でも、荒玉水道と野方水道塔との絡みで、実際はあったかどうかは定かでない・・・というのものたがひさんのご指摘を受けた時点で、これからは立ち止まって、できるだけ資料類を当たってみようと思います。つまり、可能な限りその場で修正できるところがあれば、ご指摘とリアルタイムで直してしまおう・・・というのが、アライアンス(協働)の考え方です。ものたがひさんのほうでもお調べいただくと、成果を持ち寄れるというメリットもありますね。
いままでは、すぐに「明日の記事」「次の記事」へと進んでしまったのですけれど、上記のようなケースが発生した場合には、ちょっと立ち止まって、そちらの調査へ少し注力してみよう・・・というのが、新しいこのブログとの“付き合い”方です。
もっとも、わたしもけっこう頑固なところがありますから、わたしの想定した感触や想像の部分で、こう書きたいというところは「譲れない!」と意地を張るかもしれません。(笑) でも、言いたいことを言い合うのが、いちばん手っ取りばやい信頼関係の築き方だ・・・という思いも確かにありますので、どうぞその節は「このG.P.め!」(Ganko Papaめ!)とご容赦ください。(^^; よろしくお願いいたします。<(__)>
by ChinchikoPapa (2006-05-20 20:48) 

ChinchikoPapa

さっそく、「タンク」の記事にご指摘の「荒玉水道」(+野方水道塔)のテーマを加えてみました。もともと、水道設備があった文化村ですので、井戸水を使っていた周囲の地域への配水が優先され、比較的に工事は遅い時期だったんじゃないかな・・・と想像します。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-05-04
空中写真も、差し替えて見ました。ご参照ください。
by ChinchikoPapa (2006-05-21 12:40) 

ものたがひ

リアルタイムな過去記事再構築との御方針、了解しました。検索エンジンから入る方多いだろうなあ、と私も思い、試みにGoogleに「佐伯祐三 下落合風景」と入れたら、ガガーン、い、一位ですね。大変な事になっちゃった。素早く御対応下さっているのに、ぐずぐず出来ませんよう。兎も角、まず、具体的にいきますね。
第一文化村の写真。「エリア」という表現、適切だと思いました。桃色の破線が、左の2軒の家にかからない方がベターだとは感じます(希望が細か過ぎます?)。
第二文化村の写真。これが1937年に存在する家屋かもしれない、という可能性は、G.P.抵触事項ですか?私のそこはかとない違和感は、むしろ、この第二の器械室のシルエットが大きすぎる事にありました。それなりの邸宅に匹敵する大きさがある感じがします。こちらのタンクのあったスペースは、すぐにも宅地として売却できますから、タンクは要らなくなったら、時を置かずどけられてしまいそうです。
タンクに関し、あと考えたのは、第三、第四文化村では、どうなっていたのか、ということです。『目白文化村』を再読しましたら、第三文化村の1925年9月の広告に「水道」の言葉が無い事に気づきました(71頁)。荒玉水道町村組合は、1925年の1月末日に組合設置の許可を得ているので、遠からず水道が通じる事が決まっていた時期です。地割図にもタンクは無く。第三文化村に家が建て込みはじめる時期と、水道の通じる時期の関係は如何。また、それらと、第一・二の方の関連は?、といった所です。『荒玉水道抄誌』は、いずれ直接ご覧頂きたく存じております。
ところでG.P.さま、どうやら私は、G.M.(学究派ものたがひ)を僭称したいのかもしれません。学究派とは、「このアカデミズム!」ではなくて、『狂気について』所収の文章でいえば、「やはり台所があったのか?」や「白日夢 カトリーヌ・ド・メディチ太后の最期とその脚の行方」に喜んでしまう性質と御理解下さい。
by ものたがひ (2006-05-21 22:31) 

NO NAME

初っ端にコメントしておいて、何のレスもつけず申し訳ないです。実家の父にPCで見てもらったところ、よく似ている感じだけどうちは竹垣の塀はなかったといってました。昔の家の周りは、オオムラサキ(ツツジ)の生垣だったはずだと。
ですから、これはやはり私の思い違いだと思います。お騒がせしてすみません。あまりにこんな感じだったので。<m(__)m>
タンクのほうでコメントさせていただきましたが、第1文化村あたりは昭和7年に水道が通ったそうです。これは記憶力の良い父がそう言っていました。また、この絵はどこを描いたか聞いてみたのですが、ちょっと記憶にないそうです。ですが、もしかすると中井のほうかもと言ってました。左の道の角度が不自然で気になります。
ちょっと、これまでのコメントの流れとそれてしまってすみません。
このブログは私にはとても楽しみなのです。
なにしろ、昔住んでいた所の写真やその近くを描いた絵、また引越しした後の実家の写真などがアップされてて色々あってびっくりするとともに嬉しいのです。文化村は消えて無くなっても、下落合の思い出は消えていませんし老齢の父にとっては色鮮やかに思い出せるようです。でも曽祖父のころえぐい土地買収されたそうで、父は未だに西武嫌いは変わらず下落合駅は利用しないみたいです。
by NO NAME (2006-05-21 23:10) 

ものたがひ

のそのそキーボードを打っている間に、NO NAMEさんの地元の御証言で、事態が急展開!!早くもアライアンス状態の出現ですね。
by ものたがひ (2006-05-21 23:22) 

ChinchikoPapa

> G.P.抵触事項ですか?私のそこはかとない違和感は、むしろ、この第二
> の器械室のシルエットが大きすぎる事にありました。それなりの邸宅に匹
> 敵する大きさがある感じがします。

ものたがひさんの下に、コメントをお寄せいただきましたNO NAMEさんの、ご尊父の証言が出ましたね。1932年(昭和7)に第一文化村には「荒玉水道」が開通していた・・・とのご記憶です。つまり、「荒玉水道」幹管の完成後、翌年にはすでに落合町には枝管が引かれていたことになりますね。ということは、1936年(昭和11)に第一文化村には、水道タンクがすでに存在しなかった可能性が高いです。第二文化村はどうだったか・・・。

> タンクに関し、あと考えたのは、第三、第四文化村では、どうなっていたの
> か、ということです。

第四文化村は、第一文化村の水道タンクとの共用ではなかったかと想像します。また、第三文化村が販売されたころ(1924年)には、ようやく荒玉水道の工事が開始されたころのようですので、すぐには水道が引けないことを承知して水道タンクを設置していたと思います。「田」の字の北辺の道の下に、第三文化村の水道タンクがあったという話を聞いたことがあります。佐伯祐三が「菊の湯」の煙突を描いた『下落合風景』で、絵の中の搭状の構造物を「水道タンクではないか?」としたのは、そのためです。
ものたがひさんことG.M.さん、いい加減ですぐに想像を文字にしてしまうわたしの、ストッパー役をお願いします。(笑)
by ChinchikoPapa (2006-05-21 23:33) 

ChinchikoPapa

> ですから、これはやはり私の思い違いだと思います。お騒がせしてすみま
> せん。あまりにこんな感じだったので。<m(__)m>

いえ、少しでもお気づきの点がありましたら、ぜひご遠慮なさらずコメントをお寄せください。例の赤い屋根の家につきましても、お気づきの点がありましたらいつでも書き込んでください。

> タンクのほうでコメントさせていただきましたが、第1文化村あたりは昭和7
> 年に水道が通ったそうです。

貴重な証言をお教えいただき、ありがとうございます。<(__)> これで、1936年(昭和11)現在の空中写真で、存在する可能性のきわめて低い「水道タンク」を、ためすがめつ画面とにらめっこしながら探し出す必要もなくなりました。
それから、by「NO NAME」さんですと、なんとなくスパムコメントのような感じがしてしまいますし、なかなかお呼びしにくいですので、ぜひ、なにかPapalog用のネットネームをお決めください。(^^
by ChinchikoPapa (2006-05-21 23:46) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、さっそく空中写真の図版を修整してみました。
ご参照ください。
by ChinchikoPapa (2006-07-28 13:40) 

ものたがひ

ありがとうございます。すっきりしてきました(笑)。
ところで、別館の『「道」の「道」』考で、コメントしてくださった、この坂道が拓かれるとき、やや切通しのように掘削して貫通させたと思う、とのご指摘や、、その段差の違いへの御注目、興味深く拝読いたしました。この絵を見ていて、更に思うのは、どうも、中央の「道」は、左側に拡幅したばかりなのではないか、ということです。右側の整備された住宅の塀や芝生(?)の土手に比し、左手の火の見櫓側の土は荒々しく削られたばかりで、道の幅の左側三分の一ほどのあたりにも微妙な段差があります。「富永醫院」の看板の方の絵の詳細が分からないので残念ですが、拡幅がとっくに済んでいるのか、拡幅したてなのか、ちょっと関心を持ちました。
by ものたがひ (2006-07-29 22:00) 

ChinchikoPapa

左側には、拡幅の跡が見られますね。ただ、左側は当時から東京府の所有地(いまでも都と区の所有地)でしたので、営利目的の民間の住宅地とは異なり、拡幅後もたいして手入れをせずにそのまま放置された可能性もあります。
だから、拡幅直後かどうかは、絵の様子からだけでは判断がつかないですね。拡幅5~6年後でも、当初と同じような状態だったのかもしれませんね。
by ChinchikoPapa (2006-07-29 22:18) 

ものたがひ

「東京府」の所有地なのですか。そうすると、切通しを放置、という線は有力ですが、人が踏む道にも、いつまでも拡幅の跡が残ったのでしょうか。拡幅する必要性、道の端の処理については、水道や下水の普及工事との絡みもありそうです。町制になった頃の道路整備のあり方がもっと分かると、佐伯の絵の理解に、とても役立ちますね。
そして、切通しは、岸田劉生以来の、拓かれていく郊外にあるモチーフでしょうか。佐伯にとっての開発は、なんだったのか、ゆっくり考えてみたいです。
by ものたがひ (2006-07-29 23:00) 

ChinchikoPapa

現在は警視庁の交番と、区の児童遊園になっていますが、当時よりはおそらく敷地はだいぶ狭くなっているんじゃないかと思います。土地台帳を調べたわけではありませんので、正確な公有地の範囲はわかりませんが・・・。このあたり、府営住宅なども数多く建ち並んでいますので、府有地が比較的多かったのではないでしょうか。
それと、拡幅の跡がいつまでも消えないのは、右手の敷地のように土手をちゃんと整備していないせいで、おそらく雨が降るたびに土砂が流出している可能性があります。しかも、この道は坂道ですので、流れ出た土砂が坂下へ向かって流れていくため、このような筋がいつまでもついている・・・と捉えることも可能ですね。よく、整備の悪い山道などで、同じような現象を見ることができます。
土砂といっしょに小石なども運ばれるので、少しずつ道の端が掘れていってしまうこともあります。当然、その部分だけ土色が変化して見えます。
by ChinchikoPapa (2006-07-30 00:32) 

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