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元祖「すずらん通り」に吹いた風。 [気になる本]

 久しぶりに「実家」へ行ってきた。といっても、「実家」はとうに60年前の東京大空襲で焼けてしまって、存在しない。でも、急に出かけたくなったのは、『和菓子屋の息子』(小林信彦著/新潮社)を読んだからだ。小林信彦の家は、1943年(昭和18)にわたしの祖母Click!が亡くなるまで住んでいた「実家」の3~4軒先。埋め立てられた薬研堀跡にもほど近い、「村田キセル」の向こう側にあった「立花屋和菓子店」だ。以前にも書いたが、すずらん通りをはさんで斜向かいには、ミツワ石鹸の「丸見屋」本社Click!があった。
 戦前に出版された『兩國浅草橋眞圖』(木村莊八著)を、わたしはずいぶん前に読んでいるが、その中で木村莊八が描いた1900年(明治33)ごろの東日本橋あたりの絵図は、両国橋が川上へ移動する前のもので、まだ「すずらん通り」という名称も付いておらず、わたしにはいまいちピンとこなかった。このイラスト地図は、関東大震災前の両国橋西詰めを描いていて、当時は、まだ日本橋米沢町と呼ばれていたころの様子だ。

 ▲木村莊八のイラスト(関東大震災前の1900年ごろ)
 ところが、『和菓子屋の息子』には、兄の小林信彦と弟のイラストレーター泰彦の合作による、「すずらん通り」沿いの町の様子が詳細に再現されていて、わたしは親父が子供のころに走りまわったであろう近所の様子を、ようやくうかがい知ることができた。戦前の「すずらん通り」界隈は、両国(西両国)という地名で呼ばれていた。現在は、東日本橋2丁目という番地が付いている。ちなみに、東日本橋の「すずらん通り」は、1923年(大正12)にスタートする震災復興事業後に、東京のあちこちに出現した同名の通りのハシリで、名前の由来となった独特なデザイン街灯のいち早い導入とともに、元祖「すずらん通り」として、戦前まで地元では自慢のタネだったようだ。

 ▲小林信彦・泰彦のイラスト(東京大空襲前の1940年ごろ)
 木村莊八と小林信彦のイラストを比べてみると、柳橋の南にあった元柳町が消滅し、両国橋の移動とともに両国広小路の位置が北へとズレている以外は、日本橋金沢町と呼ばれた道筋にあまり変化のないことがわかる。小林イラストでは、関東大震災をはさんでいるとはいえ、江戸期・維新期からつづく表店(おもてだな)は、ほとんどが元の位置でがんばっている。これらの店々は、東京大空襲(1945年3月10日)ですべてが灰になってしまうのだが、大半の店は焼け跡にいち早くもどり、戦後も同じ場所で営業をつづけていた。
 
 この町にトドメを刺したのは、1964年(昭和39)に行われた東京オリンピック前後の再開発と、吐き気をもよおすような異臭を放つ大川(隅田川)の汚濁だった。小林信彦のいう「町殺し」が始まってからも、親父に連れられてこのあたりを散歩すると、そこここの商店から「カクちゃん!」(親父の愛称)と、幼なじみたちがうれしそうに飛び出してきた。でも、すべてがコンクリートで塗り固められ、わずかな緑も消え去った60年代後半から70年代を迎えると、なんとかがんばっていた町の人たちも、ついに「人の住むとこじゃねえや」と言って次々と去っていく。
 
 このあたりに住んでいた人たちは、ほとんどが新宿区、中野区、渋谷区、杉並区、世田谷区と、馴染みのない東京の西部(日本橋育ちの彼らは「郊外へ引っ越す」と言っていた)へと移転していった。まさに、“民族大移動”といったありさまだったのだ。これにより、中央区の人口はほぼ半減することになってしまう。それでも、洋紙を専門に扱った「七條紙店」(戦後は商事)や煎茶の「ほりつ」、料亭「鳥安」などは健在で、いまでも営業をつづけている。
 
 小林信彦の記述で、ひとつ気になるところがある。佃島の「佃政(つくまさ)」に相当する、戦前、日本橋の女親分だった「粋なおかみさんのいた」(42ページ)ところは、「金龍組」ではなく「金柳会」ではなかったろうか? 同じ「きんりゅう」と読みはするが、当時子供だった小林がイラスト化する際に“思い出し”を重ねたのとは違い、わが家に残された大人の記録には「金柳会」Click!として記述されているので、こちらのほうが正しいと思う。
⑧ 
 先日出かけたら、すずらん通り沿いには、姉妹らしいふたりが経営する、いかにも手づくりの小さなカフェがオープンしていた。BGMには、1985年に録音されたマイルスの「Time after time」が流れていた。なぜか、とってもうれしい。

■写真①:すずらん通りに面した「実家」跡。いまは、数軒の住宅や企業ビルに細分化されている。
■写真②③は『和菓子屋の息子』(新潮文庫)、はいまでも残る、すずらん通りのプレート。
■写真④⑤は大正末か昭和初期のすずらん通り、は現在(2005年)のすずらん通り。現在の左手に見えているビルが、ミツワ石鹸の旧・丸見屋本社跡。いまはカゴメ東京本社となっている。
■写真⑥⑦は、すずらん通りから1本南の通りにあった旧・千代田小学校。震災復興事業の一環として、独特な流線形デザインの不燃校舎として建てられた。東京大空襲で内部は全焼したが、戦後も内装を新たにし、そのまま校舎として使われつづけ、わたしも目にしている。親父の母校だが、5学年下には小林信彦が通っていた。は現在の同所にある、建てかえられた日本橋中学校。
■写真⑧⑨は、和菓子「立花屋」の店舗跡。この街角が、昭和初期のモノクロ写真に写るポストの角に当たる。は廃業した近くの医院。建物は、もちろん戦後のものだ。


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トロ七です

ご無沙汰ですが、両国の地図を兄貴、姉貴に送りました。 私自身は前にも記述したとおり3歳でこの地を離れたので、地元のコメントはできませんが、戸籍上は日本橋区両国五拾五番地で出生とありますので小林さん兄弟の地図でははずれていますが、昭和8年生まれの兄貴が小学校のそばの関口おもちゃ屋の子供とよく遊んだといっています。 一番上の兄貴が大正14年5月生まれですから(十年前に他界)、お父さんと同級のはずです、「千代田小学校」という名前は川向こうの子供たちからは憧れだったそうで、確かに千代田は千代田城(江戸城の別名)に通じるからですかね。たしかに千代田区はそこから名前を付けたはずですから。
by トロ七です (2005-12-21 16:12) 

ChinchikoPapa

うちの親父は、大正14年7月ですから間違いなく千代田小学校で同学年、しかも同級だったかもしれませんね。1学年上の三木のり平とともに、通りがかる女の子の袂にカエルを入れて遊んだかもしれない、両国のワルガキ仲間だった可能性もあります。(笑)
千代田小学校を調べてみますと、もともとは浅草橋のたもとにあったようです。ちょうど現在の神田川に面した、日本橋女学館中学・高校のあるところに建っていたのが、大正期に現在の位置へ、つまり薬研堀の「元柳橋」があったあたりへ引っ越したようです。なぜ両国広小路近く、日本橋金沢町にあるのに千代田小学校と呼ばれるようになったのか、親父に訊いたことがあるのですが、明治期に明治天皇が行幸してから、そう呼ばれるようになったという答えでした。
千代田という地名は、漢字が当てはめられると違う意味に感じてしまいますが、江戸岬の東岸に「チヨタ」(一説にはチェオタ)という地名が、江戸期以前のかなり古くから見られますので、原日本語の地名ではないかと感じます。
by ChinchikoPapa (2005-12-21 16:45) 

ナンネル姫

すずらん通りの「カフェ スタジオ ウフ」で今夜(2006/3/3)「着物でひな祭り」というパーティーがあり、適当な地図を探して御邪魔致しました。
楽しく読ませていただいたわ。懐かしい話や、驚きの新事実など…。
本文で「姉妹のカフェ」と仰っているのが、多分「ウフ」ですわ。
隅田川=セーヌ化計画、で両国橋はポン・ヌフかポン・デザールか、なんて盛り上がっていますのよ。
江戸っ子全開ですわ!!
blogs.yahoo.co.jp/nannerl1128/
by ナンネル姫 (2006-03-03 12:56) 

ChinchikoPapa

ナンネル姫さん、こんにちは。
うふ、文中のカフェが「ウフ」です。(笑) つい先週も、立ち寄ったばかりだったりします。いろいろキメ細かに気をつかってくれるカフェで、席につこうとすると「そこは寒いですからこちらへ」とか、本を読んでますと「暗くないですか」とか、声をかけてくれます。JAZZが静かめに流れているのもいいですね。
先日は、テーブルに佐伯祐三の画集を拡げて、コーヒーそっちのけでああでもないこうでもない・・・と、延々調べものをしていたのですが、そんなヘンな客でも鷹揚に長時間、いさせてくれました。すずらん通りで、ホッとするスペースです。
両国橋ですが、ついでに川上へずれてしまった花火を、本来の両国橋へもどしたい・・・というのが、生前の親父の意向でした。周囲の町並みの状況から、もはや消防法にはひっかからないでしょう。やっぱり、「両国の花火大会」のほうがサマになります。ついでに、「隅田川の花火大会」には参加されていない15代鍵屋さんも、これなら納得して参加されるかも・・・。(^^
by ChinchikoPapa (2006-03-03 15:06) 

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「橘」薫る東日本橋の風。(Chinchiko Papalog 2010-03-05 00:03)

 2007年に文藝春秋から出版された、小林信彦Click!の『日本橋バビロン』を面白く読んだ。わたしが実際に目撃し、知っている時代は物心がついた1960年代も後半、つまり本書では最終章あたりに登場してくる東日本橋時代なのだが、一度も目にしたことのない戦中や戦前の情景でも、どこか懐かしく感…[続く]

日本橋雑煮を娘に教える。(Chinchiko Papalog 2010-01-04 00:10)

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岸田劉生が描く銀座カフェ「KUMOTORA」。(Chinchiko Papalog 2009-12-17 00:01)

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下落合を吹きぬけた嵐。(Chinchiko Papalog 2009-09-18 13:31)

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打ち上げ花火を気にする世代。(Chinchiko Papalog 2009-08-13 00:08)

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33年ぶりにこんにちは、ミツワ石鹸。(Chinchiko Papalog 2009-01-17 00:03)

  1975年(昭和50)に倒産したミツワ石鹸が、昨年(2008年)ようやく復活した。ミツワ石鹸Click!というネームが世の中から消えて、すでに33年が経過しているが、アタマに染みついたCMソングやロゴマークはいまだに鮮明だ。市場でこれほど長く不在だったにもかかわらず、高い認知度とブラ…[続く]

目白駅を出たら100mの鉛筆ビルだって?(Chinchiko Papalog 2008-12-02 00:30)

 今年の夏ごろにお話をうかがって署名をしていたのだが、ほかのテーマにかまけて記事にするのをズルズルとサボっていたら、いつのまにか初冬になってしまった。この11月、すでにNTT都市開発(株)の表明によれば計画自体が「抜本的な見直しを検討する」というフェーズに入ったようだけれど、まだまだ油断…[続く]

江戸東京で物語が最多の両国橋。(Chinchiko Papalog 2008-10-03 00:18)

 親父が仕事の関係で神奈川に住みながらも、最優先で取り組んでいた東京の“運動”のひとつに、大川(隅田川)の大橋(両国橋)花火大会復活のテーマがあった。無知で傲慢な明治政府の手で、神田明神から外された将門の主神復活Click!もそうだが、柳橋あたりで花火復活をめざす集りがあると、酒が一滴も…[続く]

東日本橋と下落合の長谷川利行。(Chinchiko Papalog 2008-08-24 02:21)

  戦前、わたしの実家の斜向かいには、千代田小学校(現・日本橋中学校)との間にはさまれて、すずらん通りClick!沿いに丸見屋本社のビルが建っていた。いまでは、カゴメ東京本社のある一画だ。丸見屋商会というとわかりにくいが、ミツワ石鹸Click!といえば記憶されている方も多いだろう。ミツワ…[続く]

戦車が目白通りにやってきた。(Chinchiko Papalog 2008-08-12 00:28)

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大正期の東京が匂う曾宮一念『東京回顧』。(Chinchiko Papalog 2007-08-13 00:20)

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夕暮れの「芸術村」にたたずむ女。(Chinchiko Papalog 2007-06-13 00:01)

 『落合町誌』(1932年・昭和7)にも登場する、アビラ村の下落合2113番地に住んでいた千葉医科大助教授の古屋(こや)芳雄だが、このキーワードをたどっていくと、面白いエピソードが下落合押しに、いや目白押しに出てくる。まず、洋画家の木村荘八や岸田劉生とのつながり。岸田劉生Click!の…[続く]

すぐに「なぐってやる!」の岸田劉生。(Chinchiko Papalog 2007-03-29 00:00)

   第二文化村Click!南端にも住んでいた武者小路実篤の著作に、『思い出の人々』(講談社/1966年)がある。武者小路が『白樺』を通じて初めて岸田劉生Click!に会ったときから、すでに岸田は誰かに対して憤慨していた様子が記録されている。帝劇の観劇中にもかかわらず、ある音楽家に腹を立…[続く]

たまには「とん狂な失言」を。(Chinchiko Papalog 2007-03-27 10:29)

 山本周五郎ではないけれど、おそらくきょうの記事は「とん狂な失言」となるのだろう。下落合界隈の、あまりの急激な変わりように、わたしの記事も取材も追っつかない。(御城)下町Click!の記事が書きたいのをムズムズ抑えながら、これだけ下落合のテーマへ集中しているのに、その変化をリアルタイム…[続く]

中村彝に酷評された岸田劉生。(Chinchiko Papalog 2007-02-13 00:04)

   岸田劉生が、おそらく下落合の中村彝アトリエClick!を訪ねてから3年後の1919年(大正8)、彝は劉生へ容赦のない酷評を浴びせている。新潟の柏崎にいた、友人の洲崎義郎あての手紙だ。彝は、あまり他の画家たちを強く批判をせず、比較的に温厚で謙虚な性格のように見えているが、劉生をコキお…[続く]

きょうでブログ歴2年め。(Chinchiko Papalog 2006-11-25 12:31)

 早いもので、きょうでブログを始めて丸2年になる。当初は、どのようなブログにしようかなかなかイメージがつかめなかった。わたしの身のまわりで起きることをつれづれ書いていく、つまり本来のWebログの目的どおり日記風の書きだめをするつもりでいた。ところが、いつの間にかわたしの思惑を離れて、こ…[続く]

むかし聞いた足音が聞こえる。(Chinchiko Papalog 2006-10-21 00:00)

   今年の5月に、写真展にからめて「目白・下落合/歴史的建物のある散歩道」マップを作ったばかりなのに、わずか半年足らずのうちに、もうマップに掲載した美しい建物ふたつが消えてしまった。来年になると、またマップの建物のいくつかが消滅していくのだろう。しかたがないと言えばそれまでなのだが、下…[続く]

セピア色の裏側のカーキ色。(Chinchiko Papalog 2006-04-07 00:01)

 家の古いアルバムをゴソゴソやっていたら、めずらしい写真を見つけた。なぜか東京大空襲Click!で焼けなかった、戦前の貴重な写真類がまとめて出てきたのだ。 人は住んでいる家や、地元の写真はなかなか意識的に撮らないものだし、撮影するとすれば家族のポートレートがほとんどだ。地元の風景は、い…[続く]

「強い父親」と「父親不在」というテーマは違う。(Chinchiko Papalog 2006-03-03 00:52)

 いかにも家父長然とした父親、つまり「強い父親」のいる家に、わたしは“強い違和感”をおぼえる。東京っぽくないのだ。いや、より厳密にいうと東京の(御城)下町Click!っぽくない。わたしの“父親”のイメージというのは、千葉周作の北辰一刀流「玄武館」へと通う剣術つかいであり、明治維新ののち…[続く]

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