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石地蔵の視線。 [気になる下落合]

 別に上の被写体に特別な意味も、興味があるわけでもない。とある建設会社の建物横、なんでもない街角の風景だ。この風景、実は道をはさんでその反対側にたたずむ、2体(+1体)の石地蔵の目から見た同じ高さの視界なのだ。何十年も、ことによると何百年も、同じ視界の風景を見つづけているのかもしれない。もちろん、時代の移ろいとともに同じ視座にもかかわらず、目前の風景はずいぶんめまぐるしく変わっているはずだ。
 下落合界隈には、石仏がとても多い。寺院の軒下へ収容された石仏もあれば、いまでも野ざらしのまま、昔とほぼ同じ位置に文字どおり野仏のままのものもある。上の視界は、下落合の七曲坂下にある石地蔵尊のもの。時代の移ろいとともに、石仏の設置場所は頻繁に変わる。田のあぜ道沿いにあったものが街道沿いに、街道沿いに建立されたものが道路の整備や宅地化のせいで、寺の境内あるいは公園に移動されたりする。だから、同じ風景を何百年も見つづけている野仏は、実際には意外に少ないのかもしれない。
 武蔵野は、石仏の宝庫といわれている。昔から、「武蔵野の石仏」をテーマにした本や写真集は、数多く出版されてきた。先日、親父の書棚を見ていたら、たくさんの石仏に関する書籍を見つけた。仏像ヲタクだった親父は、寺院に安置された仏像彫刻に飽きたらず、山野に建立された野仏まで「研究」していた。子供がそんなものを観ても面白くはないのに、わたしは寺社巡りや石仏巡りにつき合わされた。
 
 書棚の中に、三吉朋十の『武蔵野の地蔵尊』(有峰書店/1972年)を見つけた。都内に残る地蔵を地域別に紹介したもので、新宿周辺では12体の地蔵尊が紹介されている。下落合の直近では、もちろんその特異な表情で有名な自性院(西落合)の「猫地蔵」だ。ちなみに、この自性院も古墳の上に築かれたようで、1960年(昭和35)に境内の西側にあった、おそらく羨道とみられる横穴が工事で埋められている記録が残っている。
 この「猫地蔵」、小松石(伊豆根府川石)に丸彫りされた立像で、地蔵にしては珍しく女体姿だ。自性院では秘仏としているが、なぜか写真が撮られている。「猫地蔵」は小松石だが、前掲書によれば武蔵野の石仏には大谷石に彫られたものもけっこう多いそうだ。大谷石は、軟らかいので彫刻しやすい半面、風雨によって風化しやすく、長期間にわたって元の姿をとどめる作品は少ない。でも小松石は、千代田城築造の際に、石垣を造るために伊豆から大量に切りだした石で、硬くて加工には手がかかるものの風化しにくいのが特徴だ。千代田城が完成したあとも、伊豆根府川の小松石は生産されつづけ、江戸の後期まで日本橋河岸へ大量に陸揚げされていたらしい。だから、都内にある江戸期の石仏は、その大半が小松石製だといわれている。

 下落合のまわりを見わたすと、「猫地蔵」のほかにも「子安地蔵」「水くれ地蔵」「腰折地蔵」「延命地蔵」など、いわれや伝説の付随する地蔵尊がたくさんある。釈迦が滅したあと、次の弥勒が出現するまでのはるか56億年間を、なんとか「二仏中間の大導師」=地蔵が人類を救済するために東奔西走するありさまを想像すると、かなり同情したくもなってくる。人の思惑や罪業を一身に背負い、一方的に感謝・祈願・孝養・逆修・雨乞・安産・子育・厄除・豊穣・滅罪・健勝・落慶・勝利など、人間にとってまことに都合のよいさまざまな課題を押しつけられ、頼られつづける地蔵は、とうてい56億年も持たずに“過労死”してしまうことだろう。
 七曲坂下の2体(+1体)の石地蔵は、単なる「お地蔵さま」であって、とりたてて「○○地蔵」とは呼ばれていない。(通称で「七曲地蔵」と呼んでしまってはいるが) 鎌倉古道沿い、なんらかの伝説やいわれがあったのかもしれないが、いつのまにか忘れ去られてしまったのだろう。特に○○と付かない無役の地蔵は、心なしかホッとして肩の荷をおろしたような表情をして見えるのは、気のせいだろうか。

■写真上:七曲坂の下、鎌倉古道沿いにたたずむ石地蔵の視線。
■写真中は七曲坂の地蔵。涎掛けやお供えは、いつも真新しい。は自性院の秘仏「猫地蔵」。
■写真下:すっかり秋めいた、大好きな下落合風景。たぬきの好物の柿が、たくさん実る季節だ。


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