「江戸前」と「下町」と「山手」。 [気になるエトセトラ]

「下町」というのが、せっかちな江戸っ子らしく「御城下町」を略したものであることは、あまり知られていない。現在は、おもに東京の西北部、山手線の内外周辺に展開する武蔵野の丘陵地帯、おもに明治~大正期に開かれて華族やおカネ持ちの邸宅が並んだ「新山手」に対する、反対語のようにつかわれてしまっているが、もともとは御城下(千代田城下)の町・・・という意味だった。つまり、武家が多く住んだ現在の山手線内「旧山手」の町も、実は当初「下町」だったことになる。
大坂(阪)から江戸へ出てきた戯作者の西沢一鳳という人は、江戸で話される地名の規定に興味をもったらしく、「江戸前」という地域の規定を、「大川より西手、御城より東手」としている。(『皇都午睡』) だが、それを受けた三田村鳶魚は、「知れなかったから穿鑿して了解したのであらう。(中略) 明白に請取れる解説でない」と一蹴している。
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江戸前は即ち下町のことである。同じ地域を江戸前とも下町ともいふのだが、この二様の称呼は対語として発生した。この御城下町を下町といふのである。その御城下町は後来江戸市街の膨張のために、品川から板橋まで軒続きになつては、なかなか見渡しただけでは見別けられない。(中略)本所深川も享保から江戸町奉行の支配になつてゐる。江戸前や江戸向といふ言葉が自然地理にも行政地理にも使用されなくなつて、その意義が段々知れなくなつたのに、別な意義から江戸前が権威ある言葉になつて来た。それは何故だろう、他でもない、鰻からである。
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・・・と、「江戸前」と「う」は直結してしまうことになるのだが、「江戸前」の規定はともかく(先日の水産庁の「江戸前」規定は、ずっと新しい大正期以降のものだ)、「下町」とは御城下町、尊称をつけなければ城下町がちぢまったものという伝承が、幕末~明治期まで存在していたのがわかる。でも、江戸の後期からは、「下町」に対する反対語としての「山手」(やまのて=丘陵地帯の武家屋敷街)という表現も、併せてつかわれているのが寛政前後の文献にみえている。
ちぢめた言葉がひとり歩きしてしまうこの現象は、江戸時代を通じて随所に見える。たとえば「水道」。ふつう江戸東京では「すいど」と発音する。土地っ子が「水道橋」を読むときは、「すいどばし」だ。「江戸っ子は すいどの水で 産湯つかい」と川柳にも詠まれていたのだが、江戸後期には「す」さえも省かれて「いど」と呼ばれることが多く、市中の暗渠となった水道管に通じる竪穴を、地下水をくみ上げる「いど=井戸」と混同して書かれてしまうことも多かった。江戸期の町場に、飲料水としての井戸は基本的に存在していない。例外的に深く掘られた、白木屋の井戸がしょっぱくなく真水だったからこそ、評判を呼んだのだ。水道と書いて「いど」と読ませるのが正解だろう。
また、山手も「やまのて」が縮まって、単に「のて」と省略して呼ばれるようになった。明治から大正にかけては、「之手」あるいは「乃手」などと書かれた本もあるので、東京の省略言葉を知らないと、いったいなにが書かれているのか意味がわからないことになる。年寄りには、いまでも山手のことを「のて」という人がけっこう残っている。同様に、朱引き・墨引きの拡大とともに拡がった、江戸後期の市街は「大江戸」と呼ばれるようになるが、ちぢめて「おえど」と発音する。これも言葉がひとり歩きして、いつの間にかおかしな敬称つきの「御江戸」となってしまった。墨引きの内、染井に発した植木・鉢植え文化が花開いた、江戸後期=大江戸の街辻を「花の御江戸」としたんじゃ、話がおよそ通じにくかろうに・・・。
行政区が35区の大編成になった昭和初期、東京は大江戸にならって「大東京」と呼ばれることが多くなった。戦前の地誌本や観光案内、地図などもみんなそろって「大東京」と銘打っている。※ でも、「おとうきょう」とも「だとうきょう」ともちぢめられず、「だいとうきょう」と呼ばれていたのは面白い。案のじょう、ちぢめて読めないまだるっかしい言葉は定着せず、いまや「だいとうきょう」なんて呼ぶ人はほとんどいなくなってしまった。
※そういえば、「銘打っている」という刀剣用語Click!も現役でつかわれていましたっけ。
■写真:現在の「山手」と「下町」の街角イメージ。上は昭和初期に流行ったスパニッシュ(麻布山)、下はおそらく震災後大正期の表店=商家(築地)。
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旧・下落合(中落合・中井2丁目含む)には、大正期に「草津温泉」Click!という銭湯が存在していた。佐伯祐三Click!も『下落合風景』Click!シリーズの1作Click!に、「草津温泉」の煙突を入れて描いているが「XX湯」と呼ばれる一般の銭湯と、「XX温泉」と名づけられた銭湯とは、…[続く]
この前、家の留守番電話に妙なメッセージが録音されていた。電話機は、買ったときの一般的な応答メッセージを使っているので、相手はまちがい電話にまったく気づかず、そのまま用件を吹きこんでしまったのだろう。「いま東京駅。これから、そちらへ向かいます」という女性の声だった。家族に訊いても、まった…[続く]
大田南畝(大田蜀山人Click!)というと、狂歌作者として大江戸の(御城)下町Click!で暮らしていたイメージがあるが、牛込御家人町(現・新宿区中町・南町界隈)で生まれ育った生粋の旧・乃手人だ。当時、大田南畝の親しい友人だった滝沢馬琴Click!や山東京伝Click!が深川出身なので…[続く]
今年から数年先まで、おそらくチェルノブイリのときがそうであったように、食物連鎖などによる本格的な放射性物質の濃縮汚染Click!がはじまると思うのだが、暮れに映画で吉永小百合の顔を観ていたら、彼女が演じたふたりの被曝者の作品(ひとつは恋人が被曝者なのだが)を思い出した。『愛と死の記録』…[続く]
幕末に作成された「下落合村絵図」を眺めていたら、西坂を上がって葛ヶ谷(現・西落合)方面へと斜めに抜ける道沿いに「大神X」という記載を見つけて色めき立った。距離や縮尺が曖昧な江戸期の絵図なので、厳密な特定はできないけれど、描かれた「大神X」の位置を信用するなら、現在の落合第一小学校Cli…[続く]
国際聖母病院Click!の建設計画は、あるひとりの女性の死によって始動している。フランスへ滞在していた医学博士・戸塚文郷(のち聖母病院の初代院長)が、フランシスコ会の会員だったローズという女性の死に際し、「マリアの宣教者フランシスコ修道会」Click!の医療事業に役立ててほしいという、…[続く]
サイトへのアクセス数が、少し前に400万人を超えた。毎日の仕事に追われ、このところ取材時間や資料の下調べの時間が不足していて、不満足な記事しか書けておらず、とてももどかしくて恥ずかしいのだけれど、目白・落合地域を中心にたくさんの方々から支えていただき、また読んでいただけるのはとても嬉し…[続く]
美術史の分野では「学芸員の父」とも呼ばれる森田亀之助Click!だが、下落合が気に入っていたのか、ずいぶん早くから同地に住んでいる。(城)下町Click!は京橋生まれの森田は、戦時中も疎開せずに下落合にいて、1945年(昭和20)5月25日夜半の山手空襲Click!で罹災している。佐伯…[続く]
落合町の署名者を、少し詳しく見ていこう。まず、署名筆頭に記されている加藤公太郎(上落合524番地)は、地元旧家の出であり衆議院への「請願書」Click!当時は、上落合の町会役員および月見岡八幡社の氏子総代をつとめていたと思われる。以下、『落合町誌』Click!(1932年)から引用しよ…[続く]
戦時中の東京地方には、空襲警戒警報および空襲警報が数えきれないほど出されているけれど、それらすべての警報で空襲が実際に行われたわけではない。たとえば、神奈川県や千葉県、あるいは東京郊外にあった市町村や中島飛行機工場Click!など軍需工場群への空襲でも、東京の市街地には警戒警報のサイレ…[続く]
うなぎついでに、江戸期に滝沢曲亭馬琴Click!によって記録された、めずらしい「大うなぎ」の話を見つけたので書きとめておきたい。うなぎの大型のものは昔から大うなぎと呼ばれるけれど、これは普通のうなぎが成長したわけではなく、日本うなぎ(学名:Auguilla Japonica)とは種類が…[続く]
江戸東京方言(およそ町ごとに異なる多彩な東京弁)と、「標準語」とが同じものだと思っている人が多いのに、改めて愕然としてしまう。少し前、「OPALな日々」のOPALさんClick!も書かれていたので、さっそくコメントを書かせていただいたのだけれど、東京方言と「標準語」とは、用語やアクセ…[続く]
落合地域を流れる神田川や妙正寺川には、江戸期からいくつかの水車小屋Click!が造られていた。周辺の田畑で収穫された、米や麦など穀物類の製粉用に設置されたのだろう。神田上水(神田川)には、田島橋の上流にひとつ。妙正寺川には、美仲橋の上流の四ノ坂下あたり、バッケ堰Click!の下流にひと…[続く]
最近、仕事に私用に、なぜか霞ヶ関あたりを歩くことが多い。ついでに、ビルの谷間をめぐっては江戸期の大名屋敷の所在跡や、その庭に勧請された稲荷や弁天の有無などを確めてきたりするのだけれど、千代田城Click!の桜田見附(外桜田門/内桜田門)の見える外桜田界隈は、松平安芸守、戸田淡路守、松平…[続く]
2007年に文藝春秋から出版された、小林信彦Click!の『日本橋バビロン』を面白く読んだ。わたしが実際に目撃し、知っている時代は物心がついた1960年代も後半、つまり本書では最終章あたりに登場してくる東日本橋時代なのだが、一度も目にしたことのない戦中や戦前の情景でも、どこか懐かしく感…[続く]
1947年(昭和22)3月に四谷区と牛込区、そして淀橋区が合体して成立した新宿区が、スタートから7年めに発行した「新宿区勢要覧/昭和29年版」を、ある方からお譲りいただいた。空襲による焼け跡がようやく目立たなくなり、新宿の繁華街に活気がもどってきたころの区勢要覧だ。すでに発行から55年…[続く]
木村荘八Click!のエッセイを読んでいたら、ちんやか今半か、ももんじ屋かあるいは別の店だかは忘れてしまったけれど、子供のころに連れられて入ったすき焼き屋Click!の女中さんが、白足袋ではなく青足袋をはいていたのを思い出した。青足袋は、もちろん男用の足袋であり女性がはくことはありえな…[続く]
2004年の11月にWebログをスタートしてから、今月で丸5年がすぎた。われながら、よく飽きずにつづくものだ・・・と、つくづく呆れている。中には、かなりのオフザケ記事もあるのだけれど、そこは面白くて楽しいこともなければ煮詰まって行き詰まってつづかない・・・ということで、なにとぞ目をつぶ…[続く]
1915年(大正4)に出版された『東京府・豊多摩郡誌』を参照すると、落合地域では製紙業者58軒に対し染色業者(染、晒、練業)はわずか1軒にすぎなかったことがわかる。ところが、大正後半から昭和にかけて、落合地域の染色業は急増することになる。1923年(大正12)の関東大震災Click!を…[続く]
親父の世代までつかわれていた東京弁に、「生野暮」という言葉がある。「きやぼ」あるいはまだるっかしいので縮めて「きゃぼ」などと発音される。親父は、ごくたま~にしかつかわなかったので、すでに戦後はほとんど死語に近い存在だったのだろう。江戸時代からつかわれている言葉だが、いまや「おきゃがれC…[続く]
下落合の相馬邸にあった正門=黒門Click!が、外桜田に建っていた中村藩相馬家の上屋敷正門そのものであり、向かって左側の出番所(袖)を落として片袖になったのではないか?・・・という記事Click!を、1941年(昭和16)にスタートした黒門の香椎中学校(福岡市)への移築Click!の経…[続く]
新橋というと、明治以降に華やかな料亭街が形成され、数多くの芸者や芸人が集った街として知られている。銀座や有楽町にもほど近く、明治末から昭和初期にかけては、江戸期からつづく大川端の柳橋Click!と覇を競う花柳界として、大きく賑わっていった。新橋が急速に発展したのは、1872年(明治5…[続く]
もう一度、相馬邸の下落合から中野への転居と、黒門の移築などの経緯をまとめてみよう。-1939年(昭和14) 相続に関連して相馬邸が売却され、相馬家は下落合から中野へ転居-1941年(昭和16) 太田清蔵が福岡に香椎中学校を設立、初代校長に長沼賢海が就任-1941年(昭和16) 黒門の…[続く]
新宿中村屋Click!の前を通りかかったので、店前の歩道上で売っていたカリーパン(カレーパンではない)を買って帰る。いま、カリーパンを売っている店前の隣りでは、戦前、白い飴の棒をトントンといい音をさせながら刻んでいた菓子屋があったそうだ。カリーパンならぬカレーパンの発祥は、下町Clic…[続く]
いつだったか、日曜の昼間に放送していたTVドキュメンタリーで、雑司ヶ谷・鬼子母神(きしもじん)の境内にある駄菓子屋「上川口屋」さんの、おばさんを主人公にした番組を観た。戦争をくぐり抜け、戦後は母親とともに境内の見世を苦労を重ねて守ってきた・・・というような内容だったと思う。いまのおばさ…[続く]
以前、わたしの祖母が二二六事件Click!の朝、まだ小学生だった親父を連れ「東京が火の海になっちまう。見納めだよ!」と、円タク(1円タクシー)をやとって東京じゅうを“市内見物”Click!してまわった話を書いた。まったく同様に、円タクをやとって市内見物をしていた人たちがいる。下町で泊り…[続く]
わたしは下落合界隈はもちろんのことだが、ことに東京の下町Click!には恋しているので、昔からの♪広い東京恋すりゃせまい~・・・のたとえ通り、不精なわたしでも休日になるとあちこちに出かけて行っては、好きな街並みを歩いたり地元の人と話しこんだりしている。ことに、ふるさとである旧・日本橋区…[続く]
アジアには、東京湾がふたつある。ひとつは、長期間にわたり中国に支配・属国化されつづけ、その後はフランスおよび米国の植民地化(20世紀後半型の「新植民地」化を含む)の反植民地闘争、あるいは民族独立戦争を闘いつづけたベトナムの、ハノイ市前に拡がる東京(トンキン)湾。もうひとつが、100年余…[続く]
あけまして、おめでとうございます。本年も、Chinshiko Papalogをよろしくお願い申し上げます。今年は仕事の都合で、ちょっとペースダウンして不定期掲載にしたいと思います。さて、せっかくのお正月なので、東京に伝わるおめでたい人情物語からスタート。^^ ★ 鮮やかな桃色が美しい…[続く]
麻布(六本木)育ちの義父は、よく自分の街のことを「気が知れねえ」ところだといっていた。東京オリンピックのとき、メインストリートを覆ってしまった不粋でうるさい首都高と、流行りもんばかりを追いかける街で雑然として落ち着かないから、自嘲気味に「気が知れねえ」と言っていたのではない。これ、六本…[続く]
今年の夏ごろにお話をうかがって署名をしていたのだが、ほかのテーマにかまけて記事にするのをズルズルとサボっていたら、いつのまにか初冬になってしまった。この11月、すでにNTT都市開発(株)の表明によれば計画自体が「抜本的な見直しを検討する」というフェーズに入ったようだけれど、まだまだ油断…[続く]
怪談には少し季節外れだけれど、この夏、下のオスガキがクラスメートたちといっしょに肝だめしをやった。午後9時ごろに集合して、心霊スポットツアーを10人ぐらいで開催したらしい。11時までに帰ってこいよ・・・と送り出したのだが、午前0時近くになって帰宅。どうせ幽霊姐さんClick!のいる哲学…[続く]
親父が仕事の関係で神奈川に住みながらも、最優先で取り組んでいた東京の“運動”のひとつに、大川(隅田川)の大橋(両国橋)花火大会復活のテーマがあった。無知で傲慢な明治政府の手で、神田明神から外された将門の主神復活Click!もそうだが、柳橋あたりで花火復活をめざす集りがあると、酒が一滴も…[続く]
東京の下町では、空襲Click!が予想される1944年(昭和19)になると、「建物疎開」ということが盛んに言われだし、事実、数多くの住宅や事務所が防火を理由に破壊された。実家のあった東日本橋Click!では、両国広小路をはじめ案外広めの通りがあったため、建物疎開はそれほどひどくはなかっ…[続く]
いまの東京では、「すき焼き」と「牛鍋」の概念がごっちゃになっている。おそらく大正末ぐらいだろうか、誰かが東京の「牛鍋」を見て「すき焼き」と勘違いし、東京の「すき焼き」は割下を先に入れて肉を焼かない・・・なんて、トンチンカンなことを言い出したようだ。この早合点、またしても三田村鳶魚Cli…[続く]
わたしの江戸後期の先祖には、どうやら町火消しがいたようなのだが、それが纏(まとい)を預かるほどの規模だったのか、それともいずれかの町火消しに属して家内の何人かが加わり活動していたものか、詳細はわからない。なにしろ、江戸はしょっちゅう火事にみまわれていたのだから、なにかの書付や書物など記…[続く]
下落合界隈には、モグラやカエルが多い。ネズミもときどき、真黒な目をキラキラさせて道を横切ったりする。昆虫類も、オニヤンマを頂点とするトンボや各種セミ、チョウ類はもちろん、ときにナナフシやカマキリが網戸にたかっていたりする。都心にしては、虫がかなり多いエリアなのだろう。だから、それらを捕…[続く]
東京市外である目白・下落合界隈が住宅地として開発される以前、江戸期に武家屋敷が連なっていた(旧)山手地域では、明治期に入ると早くから新しい時代へ向けた住宅街が形成されている。駒込の大和郷をはじめ市ヶ谷Click!、赤坂、麻布Click!、小石川などが代表的な乃手Click!の住宅街だ…[続く]
アビラ村Click!(芸術村)の目白崖線上に、小説家の中井英夫が住んでいた。中井英夫(塔晶夫)は、夢野久作の『ドグラ・マグラ』や小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』とともに、ミステリーの3大奇書といわれる『虚無への供物』の作者であり、まさに下落合で同作は執筆されている。中井英夫は、『がいこ…[続く]
1967年(昭和42)に出版された曾宮一念の『東京回顧』(創文社)は、東京の下町界隈の様子が画家の目を通して細かく描かれていて、同じく東日本橋にあった「いろは牛肉店」の洋画家・木村荘八Click!の著作とともに、わたしにとってはとても楽しい本だ。曾宮は、日本橋産まれの霊岸島育ち。創文社…[続く]
これも、先日のSo-netのエラー嵐でどこかへ行方不明になってしまった記事だ。もう一度、思い出しながら書いてみる。(少々、腹立ちまぎれでケンカ腰はご容赦) 阪本勝が、あとがきで「佐伯祐三正伝」と自負する『佐伯祐三』(日動出版部/1970年)の中に、『下落合風景』をめぐるこんな記述がある…[続く]
太平洋の海底に起因する、プレート型の地震だった1923年(大正12)の関東大震災Click!が下落合界隈を襲ったとき、その被害は東京の下町Click!に比べてはるかに軽かった。倒壊した家屋はわずか2棟のみ、それも江戸期あるいは明治初期に建てられたかなり古い建築だったとみられる。目白文…[続く]
わたしの旧実家から南へ800mほど下がった、日本橋浜町で産まれた洋画家・曾宮一念Click!は、やはり“食いもん”には相当うるさかったらしい。彼のエッセイClick!を読んでも、それは端々に感じられたのだが、きっと(御城)下町Click!で小さいころから近所の料理屋を連れ歩かれ、東京…[続く]
わたしが子供のころ、祖父がよく「狐火(きつねび)」のことを話してくれた。気温がやや高く、シトシトと雨が降る夜、あるいは雨上がりの日暮れなど、山や丘の中腹に得体の知れない、丸く青白い火(ときには黄色い火)が横へ点々と連なった・・・という逸話だ。光は規則的に明滅したり、連なったまま横方向…[続く]
江戸期には、町人は武家に虐げられていた・・・というイメージが強いのだが、実際には大江戸(おえど)の街のあちこちで、町人による武家への暴行事件が発生している。プライドの高い江戸市民の虎の尾を、知らずに誤って踏んづけてしまうと、地方大名の武家はもちろん、地元の旗本といえども袋叩きにあうば…[続く]
Webログをスタートしてから、24日で丸3年がたった。正直、われながらよくつづいていると思う。子供のころから、夏休みの日記だって1週間とつづいたためしはないのだ。いつだったか、「ローカリズムを突き詰めると、いつしかインターナショナリズムに転化する」・・・というテーマを、映画分野の表…[続く]
いつも、目白・下落合界隈をご紹介するのに、陸軍が1936年(昭和11)に撮影した、あるいは米軍が1947年(昭和22)に撮影した空中写真を多く用いてきた。地域に眠る物語やエピソードを掘り起こすとなると、どうしても昔の写真を参照しがちだ。たまには、現代東京の空中写真をご覧いただき、いつ…[続く]
1967年(昭和42)に出版された曾宮一念の『東京回顧』(創文社)は、東京の下町界隈の様子が画家の目を通して細かく描かれていて、同じく東日本橋にあった「いろは牛肉店」の洋画家・木村荘八Click!の著作とともに、わたしにとってはとても楽しい本だ。曾宮は、日本橋産まれの霊岸島育ち。創文…[続く]
昭和初期の空中写真を眺めていると、周囲は住宅だらけなのにある箇所だけポツンポツンと、妙な空地を見かける。別に畑のようには見えず、単なる原っぱのようだ。たとえば、目白文化村の第一/第二文化村は、販売を終えるとほどなく家々が建ち並んでいるが、第三文化村は敷地完売後もなかなか家が建たず、1…[続く]
今年の正月に、ゴッホの描画ポイントに作品プレートが建てられている、フランスのオーヴェル・シュル・オワーズの様子をご紹介Click!した。また、ゴッホの描画ポイントを細かくたどった佐伯祐三が、「オーヴェルの教会」や「村役場」、「跳ね橋」(アルル)など、ゴッホとまったく同じ場所にイーゼ…[続く]
東京には大昔から、小さくて汚い蕎麦屋にうまい店がある・・・という“お約束”がある。別になんらかの根拠や法則性が存在するわけではなく、生簀のある活魚料理屋はマズイ・・・というのと、どこか通じるところがあるかもしれない。生簀のある活魚料理屋だって、今朝とれたばかりの魚を放っていれば、別に…[続く]
江戸桜といえば、染井地域(現・巣鴨~駒込あたり)にあった広大な「染井園芸センター」で品種改良された、ピンク色も鮮やかなソメイヨシノが有名だ。(異説もあるけれど、最新の遺伝子調査によればこの説がいちばんリアル) 江戸後期、朱引き墨引きの拡大とともに、染井では造園職人や植木職人たちが集ま…[続く]
山本周五郎ではないけれど、おそらくきょうの記事は「とん狂な失言」となるのだろう。下落合界隈の、あまりの急激な変わりように、わたしの記事も取材も追っつかない。(御城)下町Click!の記事が書きたいのをムズムズ抑えながら、これだけ下落合のテーマへ集中しているのに、その変化をリアルタイム…[続く]
1925年(大正14)2月に作成された、高田町/落合町/長崎町の「大日本職業別明細図」を入手した。発行月からみて、前年の1924年(大正13)現在の下落合の様子と考えて間違いないだろう。関東大震災Click!直後のこの一時期、下落合の地図は空白時期にあたり、初めて目にする情景というこ…[続く]
めずらしく、本郷界隈を歩いてみる。子供のころ、親父もあまり連れ歩いてくれなかった一帯だ。それには、複雑な思いが澱のように沈んでいたのかもしれない。親父は、ほんとうは帝大の文科が志望だったのだ。ところが、1943年(昭和18)には、すでに文系の学生は学徒動員で徴兵されることがわかって…[続く]
江戸期からつづく「旧山手」の町を歩いていると、目白・下落合界隈とはまた違った趣きの建て物に出合う。いわゆる下町から乃手(=山手/やまのてのこと)を見るとき、旧・御城下町Click! (つまり下町/したまち)としての山手の町を表現するときは「旧山手」、明治以降にひらけた山手線の内外に形成…[続く]
501ページめの記念記事は、やはり久しぶりに「う」の話など。関東では、うなぎに酢を合わせた「鰻酢」というのが、京都のように作られていた記録はない。もっぱら、裂いて串に刺し塩をひとふりした白焼きか、したじ(江戸紫=濃口醤油)ベースの甘辛だれを塗って蒲焼きにしたものが、好んで食されていた…[続く]
いよいよ来週から、新宿区教育委員会による中村彝アトリエの「記録調査」が開始される。これで、うまく保存の方向へと動いてくれればいいのだけれど・・・。アトリエの所有者S様も、たいへん喜ばれているご様子だ。ちょうど、ご主人が亡くなられて1周忌めに調査が始まることになる。同じく、ちょうど1年…[続く]
いかにも家父長然とした父親、つまり「強い父親」のいる家に、わたしは“強い違和感”をおぼえる。東京っぽくないのだ。いや、より厳密にいうと東京の(御城)下町Click!っぽくない。わたしの“父親”のイメージというのは、千葉周作の北辰一刀流「玄武館」へと通う剣術つかいであり、明治維新ののち…[続く]
狸坂を歩いているうちに気が着いた、このコースはスパニッシュ歩きだなと。ここは元麻布にある雑貨店になっいている建物。このあとは、鳥居坂をどんどん登って行くと元はヴォーリズの東洋英和女学院。イメージ保存ということで、残っていたら、どんなに素晴らしかったと思わずにいられません。 …[続く]










大東京の 花園に
光を浴びて 今開く
ああ麗しき 学び舎は
京(みやこ)の華よ 我が京華(きょうか)
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京華小学校の校歌の1番でした。
昭和初期に作ったのかしら?
ついでに運動会の歌も覚えているので・・・。
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勝どき高く 翻る
京の華の 旗の下
若い力に 奮い立ち
いざ戦わん 力の限り
京華 京華 おお京華の健児
by りえ (2005-09-29 17:05)
なんとなく戦前っぽい歌詞ですね。・・・と調べてみましたら、校歌のほうは戦後、1950年(昭和25)の作詞作曲でした。作詞・朝倉徹、作曲・宮嶋市郎で、3番が象徴的ですね。
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3.はてなき空のかなたより 平和の鐘は 今ひびく
ああ 夢多き 学び舎は 都の花よ わが京華
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応援歌のほうは、わかりませんでした。「♪紀元は2600年~」と唄われた、1940年(昭和15)に、「♪見よ東海の空明けて~」の『愛国行進曲』が作られますけれど、このメロディーにのせて実にたくさんの「応援歌」が作られたようです。
実は、わたしの高校の応援歌メロディーが、もろパクリでした。昭和15年は、東京万博が予定されていて「勝どき」ブームもありましたので、そんなメロディーではありませんでした?
by ChinchikoPapa (2005-09-29 18:48)
そうでした。3番で戦後ってわかりますね。父やおじ・おばは違う校歌だったのか・・・。
「愛国行進曲」の旋律をよく知らないのですが、たぶん違うと思います。
応援歌は戦前ぽくない旋律/リズムですから。校歌とセットで同じコンビ作かも。
校門(=玄関)入ったところに掲示があるかもしれません。
しかし狭い学校だった。それでも校庭=中庭で運動会もやりました。
プールは勤労福祉会館(もう無いんだっけ)あたりにあったような記憶。水着に着替えてから横断歩道を渡ってプールに行きました。
「大東京」といえば、「東京音頭」じゃなくて「大東京音頭」というのがあります。
これは結構新しいのでは? 私は子どもの頃は知りませんでした。
by りえ (2005-09-30 00:38)
『愛国行進曲』なんて、知らなくて当然です。でも、80年代に大学出たわたしが、なんで唄えるんだろう。(><;☆\ 親が口ずさんでいたんですね、きっと。
今度、八丁堀に出かけたら、校舎の中を探検してきます。いろいろ、昔の面影や記念物が見つかるかもしれません。
わたし、『大東京音頭』というの知りません。いつごろの歌なのでしょう?
♪踊~り踊るな~ら 大と~きょう音頭~ ヨイヨイ
・・・じゃないですよね。(笑)
by ChinchikoPapa (2005-09-30 00:53)
サビは「東京 東京 大東京~♪」です。
どーどー らーどらそみ そーどらそみーそー
ここしかわかりません。
結婚してから団地の盆踊りで知りました。
by りえ (2005-09-30 01:39)
やっぱり、わたしは聴いたことなさそうです。
「盆踊り」へ参加したことのないわたしは、『東京音頭』の
歌詞も怪しいですね。メロディーは、風に乗って聴こえてくる
音で憶えてしまいますが・・・。
by ChinchikoPapa (2005-09-30 11:40)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-05-14 10:46)