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「戦災後の文化村」宮本恒平の視線。 [気になる目白文化村]

 

 第二文化村の南辺に、フランスへも留学した裕福な画家・宮本恒平が住んでいた。このシリーズでも、第二文化村のところで「南の尾根筋にそった屋敷街Click!で紹介したM邸(方向②)が、宮本恒平の自宅兼アトリエだった。佐伯祐三が、昭和初頭の目白文化村界隈を描いて「下落合風景」シリーズとしたのに対し、宮本恒平も目白文化村の様子を何点か描いている。
 この絵は、『戦災後の文化村』と題された1945年(昭和20)の作品だ。手前には、同年4月13日の空襲で焼けた屋敷の赤土が露出した地面が描かれ、左手には焼け残った門柱とともに、鉄製の大型金庫が見えている。手前の樹木は焼けて葉がないが、向こうに見える屋敷森は青々としているので、おそらく敗戦前後の夏か秋口のように思える。場所の特定には迷ったが、焼け跡の空中写真から判断すると、おそらく同じ第二文化村の敷地内で、のちに下落合教会(下落合みどり幼稚園)が設立されるポイントあたりから、焼け残った第二文化村の西辺のあたりをスケッチしたのではないかと思われる。

 敗戦後の文化村は数年間、焼け野原が広がったままで、なかなか屋敷が再建されなかった。建築資材の不足もあるが、東京都が戦後もしばらくの間、2階建ての新たな住宅建築を禁止していたようだ。この条例は、1945年(昭和20)4月に施行されたが、戦後もしばらくはそのまま活きていたらしい。だから、元のように屋敷を再建したくてもできなかった・・・というのが実情なのかもしれない。上記の1947年(昭和22)の空中写真でも、小さなバラック小屋のような建物はところどころに散見できるが、第一文化村と第二文化村ともにほとんど焼け跡状態のままなのがわかる。
 宮本恒平は、このような焼け跡をめぐってはスケッチしていた。おそらく、佐伯祐三の「下落合風景」シリーズを観ていたであろう彼は、そのときどのような想いにとらわれていたのだろうか? 1965年(昭和40)に第二文化村で亡くなるまで、昔日の文化村の面影が幻のように去来していたのかもしれない。

■写真は『戦災後の文化村』、は焼けた邸宅の門口で呆然とする家族。第一文化村のようだ。


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