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「下落合駅」も大きく西へ・・・。 [気になる下落合]

 

 「不動谷」が西へ誤って400mも移り、「バッケが原」が北西へと少しずつ移動し、「前谷戸」が南へ誤って500mも下ったことを書いたが、ついでに下落合駅も本来の位置から300mほど、西へ移動してしまったことにも触れておきたい。この駅の大幅な移動が、現在にいたるまでの下落合地域に、大きな影響を与えているからだ。
 1927年(昭和2)、西武電気鉄道(西武新宿線)が本格的に開業したとき(敷設・貨物利用は大正期から)、「下落合(志もをちあい)」は終着駅だった。高田馬場からの終着ではなく、反対の東村山から東京へと出る終点が下落合駅だったのだ。西武電気鉄道が「やま乃て線」の高田馬場駅へ乗り入れるのは、翌年の1928年(昭和3)からだ。本来の下落合駅は、現在の氷川明神社のまん前にあった。当初はここから歩いて5分、神田川にかかる田嶋橋から栄通りをとおって省線の高田馬場駅へと出ていたのだ。
 ターミナルとなる駅から、ひとつめの駅が近すぎたので、おそらく西への移転となったのだろう。同じような経緯が武蔵野鉄道(西武池袋線)にもあって、池袋からひとつめの間近な駅「上屋敷(あがりやしき)」Click!は、西へ移動することなく戦後に消滅し、いまでは椎名町駅がひとつめとなっている。1930年(昭和5)の地図まで、下落合駅は氷川明神の前に描かれているが、1933年(昭和8)の地図から現在位置へと移転している。
 “駅前交番”という用語があるが、氷川明神前にあった下落合駅の北にも、駅前交番が設置されていた。氷川社の東側、庚申塚が残る前の一角だ。この「氷川前派出所」は、下落合駅が西へ遠く移動してしまったあとも、なぜかそのまま居残りつづけた。聖母坂下の現在地へ移動し、「下落合駅前派出所」となるのは1947年(昭和22)以降のことだ。
 この下落合駅の移動は、道路計画にも決定的な影響を与えた。放射7号線(新目白通り)は本来、元の下落合駅をかすめて斜めに貫通し、早稲田通りへ一度合流してから甘泉園(当時のもうひとつの相馬邸)へと抜けるはずだった。1929年(昭和4)には、放射7号道路予定の点線が青く描きこまれた地図が発売され、すでに西へ下落合駅が移転してしまったあと、1933年(昭和8)には完成予想もかねた地図までが発行されている。(昭和8年淀橋區・下図)

 ところが、下落合駅が西へ大きく移動してしまったため、当初の下落合駅前経由の道路計画が大幅に狂ってしまった。高田馬場駅前から下落合駅前(氷川社前)へと通るはずだった十三間(約25m)道路は、急に予定を変更され、西武電気鉄道の北側にある氷川明神の境内をぶち貫き、田嶋橋を経由せず高田馬場駅へと鋭角に合流するという計画になった。氷川社はもちろん、予定地外だと思って安心していた住民や企業は愕然としただろう。結局、高田馬場へとは抜けずに、戦後は山手線をくぐって学習院下のほうへと抜ける計画に変更されるのだが・・・。もし、当初の予定通りに放射7号線が造られていたら、いまの下落合風景はかなり異なるものになっていたに違いない。
 下落合駅が、いまでも氷川明神のまん前にあったとしたら、山手線へと出るのに下落合の住民は便利に利用するだろうか? 「ありいた(歩いた)ほうがはえ(早い)じゃねえか」・・・、じゃなくて、「歩かれても、ものの5分ほどでございますもの」。

■写真は現在の下落合駅、は元の下落合駅跡。プラットホームの名残りか、左手の富士大学から中央図書館あたりにかけ線路敷地にかなりの余裕がある。


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hedawhig

きょうのページは・・・いろいろ思い出すことがありました。地図を随分眺めていました。  
それにしても、随分古くから計画されていたのですね、完成したのはたぶん?1981年ぐらいだったと思うのですが。甘泉園のテニスでは、都電面影橋駅近く、まだ出来ていない砂利道に車を止めた記憶があります。
地図を眺めていますと、どのくらいの方が下落合を去って行かれたのでしょう。
都市の変遷、やはり100年先を見て政治をする方が現れないといけないなあ~と、感じるこのごろ。 
by hedawhig (2005-05-05 22:23) 

ChinchikoPapa

下落合や中落合での放射7号線の貫通は、1967年(昭和42)ごろのようですが、わたしが学生時代に都電横の拡幅がようやく終わりましたので、江戸川橋までの最終的な貫通は、おっしゃるとおり1980年前後だったように思います。
それまでは、都電の線路スレスレまで人家の軒が連なっていましたね。神田川沿いの遊歩道もなく、ほとんど川っぷちまでが住宅だったように記憶しています。1974年(昭和49)に作られた『神田川』という映画がありますが、放射7号線が未貫通の都電沿いの風景(面影橋あたり)が映っていて、とても懐かしいです。
by ChinchikoPapa (2005-05-06 00:20) 

tetsuo

はじめまして。町会で石渡さんからタヌキ問題を聞いて、及ばずながら応援。
しばらく以前から興味深く拝読。
ウチの実家は祖父の時代の戦前に氷川神社から踏切を渡りすぐの右側にあった豆腐屋。戦時中に線路から直近の家屋は空襲対策で強制立ち退きという政府の指示に協力して、なんとカフェ杏奴の場所に移動。木造2階の3軒商店長屋でした。小生が小学生の昭和30年代初めに道路向かい側に地所を買って移動。現在に至り花屋となっております。ははは。道路にかなり引っ掛かりました。新目白通りができる以前の街並を覚えております。もちろん遠くの話題のバッケもね。
しかし、あなたが調べて書いていらっしゃるマニアックな下落合は本当に素晴らしい。どこからどこまで素晴らしい。小生も人並み以上に地元を愛し、関心を持っていると思っておりましたが、脱帽です。
by tetsuo (2005-05-06 06:34) 

tetsuo

昭和21年生まれの落合第四小学校は3クラス、約150人おりました。ベビーブームがはじまり、一つ下の学年が最も多かった。以来地元を離れず、地元中学、某都立高校、都の西北と身を過ごし、全共闘世代という怒濤疾風の学生時代を送り、あっというまに中島みゆきの時代は回る。気がついてみるというと、、、これはまあ、いろいろ。ところで、地元にいる落四の同級生は間違いなく5人以下です。町会と氷川神社お祭りの役員をやっているから一通り分かっているはずで、これはまず間違いない。みんなどこにどのようにいってしまったのだ。奇妙な感慨。
by tetsuo (2005-05-06 06:52) 

tetsuo

旧下落合駅跡地は、
新目白通りが出来る前には氷川神社側に鉄道用地としてかなり広く空いていました。線路自体の軌道カーブはほとんど変化がないはずです。ちょうど新目白の線路側歩道植え込みあたりでしょう。神社と空き地の鉄道用地の間は細い道が一本あっただけと思います。新目白通りができる前は民家が多くあり、友達が何人もいました。ものすごい立ち退きでしたね。土地収用というのかな。
by tetsuo (2005-05-06 07:14) 

ChinchikoPapa

tetsuoさん、こんにちは。過分なお言葉、ありがとうございます。<(_ _)>
地元の情報をいただき、ほんとうにうれしいです。わたしの親父は、戦時中に高田馬場の現在のBIGBOX裏に下宿しておりました。日本橋の家が焼けてしまった直後から、学校へ通いつづけるために昭和20年3月中旬に高田馬場へ移ったんですね。ところが、4月13日に、またしても高田馬場・下落合の空襲に遭ってしまいました。すごく、間の悪い引っ越しですよね。幸い下宿屋の2件先で、火災は鎮火したそうで、またまた引っ越しをせずに済んだとか。
そのわずか1ヶ月弱の間に、氷川明神をはじめ空襲前の下落合界隈をウロウロ散歩していたようです。ひょっとしますと、ご実家のお豆腐屋さんの前も歩いたかもしれません。カメラが趣味でしたが、戦時中ということもあり、当時の写真は残っていません。わたしが学生時代に、南長崎にアパートを借りて住んだときも、頻繁にやってきては下落合界隈を散歩していたようです。わたしもそうですが、親父もよほどこの土地が気に入っていたみたいですね。(^^
by ChinchikoPapa (2005-05-06 12:23) 

ChinchikoPapa

tetsuoさん、またまたこんにちは。放射7号線が下落合を貫通する数年前でしょうか、ちょうど東京オリンピックのころ、日本橋界隈でも「立ち退き」がひっきりなしに起こりました。それは土地収用や地上げばかりでなく、高速道路の建設や大川の汚濁などにともなう環境悪化が進み、「人が住む環境じゃねえや」ということで東京の西部へと大勢引っ越したんですね。(山手で下町言葉を連発して、「まあ、お品のない」と顰蹙をかった・・・なんて笑い話もきいたことありますが/笑)
子供のころ、親父に連れられて散歩すると、佃島の話でもかきましたが、そこここから「しばらく!」とか「よう!」とかの声がかかりました。でも、東京オリンピックを境に、そういった光景が激減したのを憶えています。その前には空襲に震災と立てつづけでしたので、おそらく下町のほうはもともと住んでいた人たちが下落合以上にもっと少ないかもしれませんね。そういうわたしも、ふるさとを棄てて、山手へとやってきて住みついてるひとりなんですが・・・。(^^;
by ChinchikoPapa (2005-05-06 12:39) 

ここのblogって

ものすごいエネルギーが必要ですね。よくやっていらっしゃる。この熱意はほとんど信じられない。趣味や遊びとかこだわりというカテゴリーの中では、たとえば私が所属する磯釣倶楽部の(潮風会)というHPがあります。月1回の釣り例会の更新と掲示板の書き込み、上部団体のお知らせの更新くらいで、ここの動きとは、質量ともに新幹線と自転車ほどの開きがある。若手の会員が管理しています。
1980年代末、パソコン通信が始まり、当時は1200bpsというモデムでピーピーガーガーとやって、nifのフォーラムで写真とパソコンと磯釣とその他少々の会議室で常連として書いていた。しかし、エネルギーからいうと、ここの運営ははるかに超越していると思うよ。
モデムの前は電話カプラーというのがあったけど、使っていない。
by ここのblogって (2005-05-08 23:08) 

tetsuo

名前のところ題名のつもりで書いて送信しちゃった。上の(ここのblog)ね。
by tetsuo (2005-05-08 23:11) 

ChinchikoPapa

音響カプラ、なつかしい。(笑) わたしはさすがに経験がないですが、300bpsのピーーヒョロロロロロのモデムは経験あります。わたしが参加していたのはPC-VANのほうですが、ついこの間のことのようなのに隔世の感がありますね。
PC-VANではフォーラムと呼ばずにSIGと呼んでいましたが、わたしもいろいろと書き込んでいました。そのほか、アスキーnetなんてのもありましたね。PC-VANは、午前2時になると終了してしまうので、それに間に合うよう必死に書き込んでいたのが懐かしいです。こんな、ミッションクリティカルなシステム環境(24時間365日無停止環境)なんて、「信じられない」時代でした。
by ChinchikoPapa (2005-05-09 01:28) 

takamine

はじめまして。西武鉄道の歴史を調べていたらこちらへたどり着きました。Takamineと申します。

なんと、現在の下落合駅は開業時からのものではないのですね。こういった記述は社史等には見当たらず、貴重な資料となりますね。
ただ、何点か気になる記述が見受けられ、御意見をお伺いさせて頂きたいのですが・・・
まず、この路線は当初は「川越鉄道村山線」として、昭和改元の頃から建設されはじめたもので、大正期からの敷設・貨物使用の事実は無さそうです(このことは社史などの資料にも記録が見受けられます。)ちなみに、「西武電気鉄道」という呼称は誤りで、鉄道ファンや研究家の間では「(旧)西武鉄道」と呼称するのが一般的と思われます。(私鉄建設がブームだった昭和初期において、「電気」という単語が比較的モダンで良いイメージを持っていたことから、仮に付けられた臨時の呼称、と思われます。)

また、開業時は省線のガードの工事が難工事のために遅れ、高田馬場の駅は現在のガードをくぐる直前に仮駅が設けられたと社史にあり、現在のようなガードをくぐった線路の工事は翌年に完成ともあります。
しかし、下落合駅が開業後に移転したと考えると、移転前の場所と高田馬場仮駅との距離があまりに近く、不自然です。
記録がどこかの時点で曖昧になってしまい、高田馬場仮駅と、移転前の下落合駅を混同している可能性も考えられると思います。
川越鉄道(西武鉄道)の社史や、参考にした趣味誌などの記述を読んでも、どうもこの辺の記述が曖昧でスッキリしません。

大変失礼かとは存じますが、御意見、ご考察をお伺いできればと思います。よろしくお願い致します。
by takamine (2006-08-07 19:09) 

ChinchikoPapa

Takamineさん、こんにちは。貴重なコメントをありがとうございました。
まず、「川越鉄道村山線」の敷設ですが、もっとも早い時期の記載は、大正14~15年にかけて作成された停車場が描かれていない鉄道線だけの記載のある地図で、代表的なものに「下落合事情明細図」があります。(東京各地で作成されているので、おそらく同様の地図が沿線の中野区側にもあるかと思われます) また、それ以前の「早稲田・新井1/10,000」の地図には、田島橋南詰めの目白変電所へ引き込まれる高圧電線の経路が、大正時代の初期(大正5年)から記載されていますが、この鉄塔経路(東京電燈谷村線)が西武新宿線の敷設線路とほぼ同じ形状をしています。この鉄塔経路に沿って、旧・下落合界隈(現在の中井方面含む)では大正後期に、線路が敷設されたものと考えています。
客車が走り始める前、貨物輸送に使われていたという記載は、わたしは複数の本から読んだことがあり、また地元のお年寄りからの証言も聞いたことがありますので、おそらく西武鉄道の社史には記載されなかっただけで、事実ではないかと思います。記載された書籍ですが、『目白文化村』(日本経済評論社)あるいは『新宿の散歩道』(三交社)だったような気もしますが、数年前ですのではっきりと特定できません。おそらく、下記のサイトのトップページ下段に掲載しましたいずれかの「参考文献」には、貨物輸送についての記述があったと思います。今度、もしまた見つけたらこちらへ掲載したいと思います。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/bunkamura/top.htm
それから、「西武電気鉄道」の呼称ですが、いずれも豊多摩郡戸塚町ならびに豊多摩郡落合町、さらに淀橋区の旧地図各種を参照しています。ちなみに、「西武電気鉄道」と記載している地図には、下落合界隈のみに限定して列挙しますと・・・
●東京府豊多摩郡落合町全図(1929年・昭和4)
●淀橋区全図(1933年・昭和8)
●淀橋区詳細図(1935年・昭和10)
●淀橋区詳細図(1941年・昭和16)
・・・などが存在します。また、戦前からの地元の呼称としては「西武電気鉄道」あるいは「西武線」が一般的であり、「西武鉄道」という表現をされる方は、わたしの感触としては少ないように感じます。むしろ、戦後からそう表現される方が増えるようです。
それから、ご指摘の高田馬場仮駅の件、このあと別の記事に絡んで実は登場しています。この記事自体が1年以上前の記述ですので、その後、判明したりご指摘を受けたり、はたまた取材をしたりした経緯を、逐一フィードバックするのをサボッてたりします。(笑) 
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-04-27
この記事で武蔵野鉄道線に絡み、deraさんより貴重なご教示を受けていました。
もうひとつ、氷川明神前にあった駅が高田馬場駅の仮設ではなく、「志もをちあひ」と呼ばれていたのは、地元の諸々郷土資料でも確認できますが、一般的には1929年(昭和4)の豊多摩郡落合町全図に記載されています。
by ChinchikoPapa (2006-08-07 21:04) 

Takamine

管理人様。早速お返事頂きましてありがとうございました。

目白変電所への高圧電線に沿って線路が敷設されたとのご推測は、当時の事情などを鑑みるとほぼ間違い無いと思います。
地図に路線の記入がある点に関しては、私も古地図を収集しておりますが、「予定」の道路や線路を、あたかも既に存在しているかのように記入してある地図をたびたび見かけますので、参考程度にしか考えておりませんでした。(例えば、昭和14年の東京全図を見ると、まだ全通していない山手通りが全通した状態で記されています。)停車場の記載が無いという点からも、線路敷設はまだ予定の段階で、停車場設置の場所がまだ確定していなかったため、とも推測できるかと思います。
乗客輸送開始以前に貨物輸送を行っていたという点に関しては、ご指摘の参考文献を探してみたいと思います。私の考えでは、鉄道建設の際に必要になる資材や、多摩川・入間川で採取され線路敷設に使用された砂利などを運ぶ輸送と混同しておられるのではないか、と考えております。もともとは武蔵野鉄道に対抗し、スピード・フリークエント輸送を重視した「郊外電車」として建設された路線で、開業時から貨物の取扱量も少ない(社史を参照)ので、貨物輸送に関しては「?」の感が拭えません。また、このことは駅の作りにも現れており、貨物の取り扱いを行った駅は、概して敷地が広く大きいことが特徴に挙げられると思います。例えば、お隣の武蔵野鉄道で言えば、池袋はもとより、路線開業時から設置されていた東長崎・練馬・石神井など、広い路盤を有しており、乗客・貨物の集散基点として、荷物の上げ下ろしが盛んであったことを匂わせます。対して、今の西武新宿線には広い路盤を有している駅は少なく、初めから貨物輸送をターゲットにはしていなかった、という特徴があると思います。

また呼称に関してですが、社名は大正11年に既に「西武鉄道(旧)」とされており(この時点で呼び名としての「村山線」は使われていた様子)、終戦直後に武蔵野鉄道との合併で「西武農業鉄道」となり、さらに1年後に現在の「西武鉄道」とされております。戦後になって・・・との管理人様の御意見は、多分この戦後の合併以降の様子が反映されているかと思います。西武鉄道の歴史の中で「電気鉄道」の呼称が用いられたのは、「川越電気鉄道(川越~大宮間)」のみであったと思います。もちろん、地元でそう呼ばれる愛称というものもあっておかしくは無いと思いますが・・・。

deraさんの記事も拝見しました。これ以外にもう一つ私が目にした記述では、当時は高田馬場あたりは市街のはずれと見なされており、市電の終点があった早稲田への延伸を考慮に入れていたとの情報もあります。(鉄道ピクトリアル1993年「西武鉄道特集」。)これは、現在の山手線との交差を直角にして、そのまま早稲田方面へ線路を延ばす、という計画だったようです。つまり、山手線の線路の直前で一旦線路を止め、そこに仮の駅を置いて山手線との連絡を図った上で、さらに直進して市街へ延伸する予定だった、ということでしょうか。現在のように急な勾配とカーブで曲がる線路も難工事だったと思いますが、実は本当に難工事だったのは、早稲田への延伸予定を指してそう言っているとも思えますね。
当時はどの路線も、山手線の内側へ線路を延ばす野望を持っていたようで、武蔵野鉄道も当初は池袋ではなく巣鴨(地蔵の門前町として栄えていたから?)としたり、東上鉄道も同じく巣鴨を基点にする予定だったとのことです。これらは多分、国が(軍事的な意味合いで)既存の国有路線との連絡を熱望したために計画が却下された、との見方が有力のようです。旧西武鉄道の高田馬場駅に関しては、真相は不明ですが・・・。ただやはり当時の繁華街であった早稲田ではなく、既存の山手線の駅に連絡するように建設された所を見ると、何らかの影響も考えられるとは思います。結局、双方の線路は繋がっていませんが、ある時期に新大久保のあたりに渡り線を設けてあったと聞いたことがあります。
高田馬場・下落合ともに、開業は1927年4月とあり、仮駅や移転などの記述はどこにも記されておらず、今回はまさに目からウロコの思いで、少なからず興奮してしまいました。乱筆乱文お許しください。このような議論が出来て大変嬉しく思っております。やはり、歴史は奥が深いですね。
by Takamine (2006-08-08 11:13) 

ChinchikoPapa

詳細にご教示くださり、ありがとうございます。

> 地図に路線の記入がある点に関しては、私も古地図を収集して
> おりますが、「予定」の道路や線路を、あたかも既に存在してい
> るかのように記入してある地図をたびたび見かけます

実は、わたしも上記の件はさんざん悩まされてまして、幹線道はもちろん補助道も含め、道路の拡幅までが“予定”で描きこまれてたりしますので、空中写真と照らし合わせて整合しないケースに多々直面してきました。予定道が、点線などで記載されているケースはまだ「良心的」ですが、あたかもそこに存在しているかのように描かれると、それをいちいち確認するのに、しなくてもいい手間をかけなければならず、煩わしいことこの上ないですね。

> 私の考えでは、鉄道建設の際に必要になる資材や、多摩川・入間
> 川で採取され線路敷設に使用された砂利などを運ぶ輸送と混同して
> おられるのではないか、と考えております。

なるほど、建設資材の運搬を貨物輸送として、お年寄りに記憶されている可能性も確かにありますね。その記憶を取材して掲載した郷土資料や書籍などが、「当初は貨物輸送に使われた」と掲載していることも考えられます。わたしも機会ができましたら、そのあたりに留意して調べてみます。

> 貨物輸送に関しては「?」の感が拭えません。また、このことは駅の
> 作りにも現れており、貨物の取り扱いを行った駅は、概して敷地が広く
> 大きいことが特徴に挙げられると思います。

このあたり、ご指摘を受けて少々気づいたことがあります。下落合の氷川明神前に終点の「志もをちあひ」駅ができたころ、ほぼ同じころに目白変電所前の神田川を渡る田島橋が大きく拡幅され、コンクリート製の強固な橋に造りかえられます。これは、大正期から計画されていた十三間通り(新目白通り)が、下落合駅前から高田馬場駅前へと抜けるため・・・と解釈し、事実、当時の地図には計画線が点線としてはっきり記載されてもいました。
でも、その計画以前に、下落合駅と高田馬場駅とを結ぶ、道幅が広大で強固な橋をともなう物流ルートが予定されていなかったか・・・という、妙な“カングリ”を覚えました。貨物輸送なのか、なんらかの軍事的な運搬ルートなのかは微妙ですが、十三間のスペースが想定された、広い「志もをちあひ」駅前に計画された当初の道路は、高田馬場駅の前で早稲田通りと合流します。早稲田通りをそのまま東進すれば、戸山ヶ原にあったもろもろの陸軍施設はすぐそこですね。「志もをちあひ」駅に運ばれてきたものを、田島橋から高田馬場駅経由で東京市内へ分散、配置するには格好のトランスファーになりそうな気もします。

> 現在のように急な勾配とカーブで曲がる線路も難工事だったと思います
> が、実は本当に難工事だったのは、早稲田への延伸予定を指してそう
> 言っているとも思えますね。

このあたりも、とても面白いテーマですね。西武線が急カーブを描いて、高田馬場駅へ乗り入れるのと同時に、十三間道路計画もすぐに変更されます。昭和4年当時は、いまだ下落合駅前を経由し高田馬場駅のコース(第1期)だったものが、昭和8年にはすでに下落合駅が西へ移動していますから、より東側へ寄った地点から一気に高田馬場駅へと合流する、つまり西武線のカーブと同じような、鋭角な道路計画(第2期)へと変更されています。この計画の時代がしばらくつづいたあと、太平洋戦争から敗戦前後にかけ、ようやく早稲田の市電駅へと向かう、現在の十三間通り(新目白通り)とほぼ同じ計画(第3期)が立案されます。
この第2期から第3期まで、10年前後の時間が経過していますので、その間、市電駅のあった早稲田側へと向かう西武線の貫通ルート計画も、どこかで密かに生き残っていたものでしょうか。それがはっきりと断念された時点で、十三間道路計画は山手線の土手を貫通して、市電の早稲田駅へと向かう現状ルートに決定された・・・と、鉄道と道路との相関計画を踏まえた別の側面から、新たに捉え直すこともできそうですね。
もっとも、私鉄の山手線乗り入れや、市街への運行に消極的だったとされる軍部からしますと、また別の大きな思惑や圧力を想像してしまうのですが・・・。

> このような議論が出来て大変嬉しく思っております。やはり、歴史は奥
> が深いですね。

調べても調べても、累進的に“謎”や疑問が出てきますね。もしなにかおわかりになりましたら、ぜひまたご教示いただければ幸いです。詳細かつご丁寧なコメントを、ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2006-08-08 15:52) 

目白の住民

西武新宿線に古くから乗っている知り合いに訊いたところ、「この先の本川越寄のカーブしたところ(現在線路の両側が空き地になっている)は昔上りと下りの線路の間が広く空いており、かつて島式のホームがあったように見えた。」との回答がありました。電車の先頭部にかぶりついて検証したところ確かに今も鉄道用地が存在します。まるで上屋敷の駅跡のようです。実際の旧駅はこの先ではなかったかと思います。
by 目白の住民 (2007-02-12 23:38) 

ChinchikoPapa

いいえ、下落合駅は下落合904~932番地にありましたので、カーブの先ではありません。氷川明神社のまん前です。以前、1929年(昭和4)の地図をこちらにも掲載していますので、ご参照ください。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-07-10
by ChinchikoPapa (2007-02-13 11:29) 

中井人

西武新宿線は東村山方面で発生した家畜の糞、すなわち有機堆肥を運ぶための貨物線だったと読んだことがあります。えー、田中康夫ですよ、それ書いてたの。彼県知事以前のコラムニストとしては暴露趣味的な要素を「売り」にしてたじゃないですか。そういう文脈で書いてましたよ。
著作をシラミ潰しに当たればわかるはずです。

むしろわたしが疑問・興味なのは「ウンコ」を省線経由で世田谷などの農地にも流通させていたのか、それとも沿線程度の農地分だけで自足していたのかというあたりのことです。

社史に書かれなかったのは沿線イメージを考慮すればなおさらでしょう。
by 中井人 (2007-04-19 00:59) 

ChinchikoPapa

中井人さん、こんにちは。コメントをありがとうございます。
田中康夫の本までは、カバーしていませんでした。(^^; わたしも、地元で何度か「貨物線に使われていた」・・・という“証言”を確かに聞いていましたので、東村山方面からなんらかの資材(たとえば石材や材木など)を運搬するのに使用していた、あるいはTakamineさんがおっしゃるように、当の西武電気鉄道建設のための資材運搬に使われていたと考えていたのですが、「貨物」の中身がウンコとは・・・。(爆!) 客車運行前の西武線は、高田馬場まで乗り入れていませんでしたので、当初の「貨物」の中身利用は、沿線の農地だったのではないでしょうか。
どこになにが書かれているか、わかりませんね。(笑) 貴重な情報をありがとうございます。
by ChinchikoPapa (2007-04-19 12:47) 

中井人

はじめまして ←ご挨拶おくれましたm(__)m

参考までにこのサイトでも同じようなこと書かれてますよ。
http://www.geocities.jp/pccwm336/sub12.html
目白文化村の項
「汚穢鉄道を抱える康次郎としては何としても西武鉄道を上品に
したかったのだ」 ぎゃはは

私中井人のふるさとなんですが100年前のことなんですから今さら
隠さなくたっていいと思いますがねえ・・・。ウン、ウン。

ところでギル邸のギル氏って何をやってらした方なんですかねえ?
機械工学系のお雇外国人なのかしら?

あとみどり幼稚園の話が出ていますが、この文化村界隈には今はなきもうひとつの教会幼稚園があったのご存知ですか?場所は有名漫画家○塚○二夫先生の仕事場、○○みマンションの前、いまは児童公園になっているところです。名前は白百合ライフスクールです。イースターやった記憶があるから多分カトリック、だったと思う。みどり幼稚園もカトリックだったかな?園長先生一家の名前はフリーナ。教会の敷地の中に白いペンキ塗りの典型的なアメリカンハウスがあってフリーナ先生一家は住んでいた記憶がある。娘の名前がベッキーフリーナで同級だった記憶が・・・・。この幼稚園新宿区の教育史資料とか紐といてみても一回も記述をみたことがない幻の教会幼稚園なのです。
by 中井人 (2007-04-19 20:45) 

ChinchikoPapa

1970年代の前半まで、神田川や大川には「汚わい船」というのがまだ航行してました。これらは、みんな東京湾の沖へいってぶちまけてきたわけですけれど、それに比べれば、江戸後期と同様に肥料としてリサイクルされていたということで、「西武リサイクル鉄道」とでも呼べば、少しはイメージがアップ・・・・・・しませんねえ。(笑) 明治末から大正にかけて、清戸道(目白通り)は糞尿荷車が盛んに往来していた様子があちこちに記録されていますので、荷車よりは鉄道のほうが大量に運べると考えるのが自然だったのでしょう。
ギル邸あるいはギール邸のことは、いつか調べて書きたいと思っているテーマですが、ギル氏の影は薄くギル夫人のエピソードが数多く残っています。髪を黒く染め、いつも着物を着て歩くほどの日本びいきで、花園づくりがたいそう好きだったようです。隣接するN邸には、いまでもギル邸のモッコウバラが美しく咲いてますね。
ひとみマンション前の児童公園といいますと、昭和10年ごろまでは妙正寺川が大きく蛇行していて、中州のような土地だったところですね。「白百合ライフスクール」のことは知りませんでした。
by ChinchikoPapa (2007-04-20 00:19) 

谷間のユリ 

こんにちは。いつもブログ楽しみに拝見させていただいてます。

ひとみマンションの前の児童公園になる前は、昭和30年代中ごろから下落合キリストの教会という、(Church of Christ系?かChristian Church系のプロスタントの)アメリカ人の宣教師が主催する教会がありました。
私はこの教会のサンデースクールに小学校2年生から4年生くらいまで行っていました。金髪の西洋人形みたいな女の子がいて、英語で話してるのをまばゆい気持ちで見ていた記憶があります。そこが幼稚園であったのかは定かではないのですが、アメリカでは教会が往々にして平日の昼間に保育園のようなものをほとんどボランティア並みの安価でやっているので、そこも無認可の可能性が高いです。それで記録がないのかも・・・。
サマーキャンプは軽井沢の外国人の別荘地帯の中で、日曜日には軽井沢会のテニスコート前の教会で賛美歌を歌ったのが良い思い出です。そのころの皆さんは今どうしてるかな~と久々に懐かしくなりました。
by 谷間のユリ  (2007-04-22 12:25) 

ChinchikoPapa

谷間のユリさん、貴重な情報をありがとうございます。(^^
「下落合キリストの教会」というのは初耳です。新宿区の教育委員会が作成した、落合地域のキリスト教関連施設を調べた民俗資料にも、採集されていません。おそらく、無認可だったとしますと自治体に記録が残らなかった可能性がありますね。サマーキャンプが軽井沢というのも、とても下落合らしいです。当時の軽井沢は、いまとはまったく別世界だったのでしょうね。
by ChinchikoPapa (2007-04-22 17:58) 

Takamine

お久しぶりにコメントさせていただきます。
西武線における屎尿運搬のお話しが出てきましたが、屎尿運搬が始まったのは終戦直後のことで、戦前にそのような事実は無かったようです。社史には、空襲で都心の家を焼かれた多くの人々が郊外へ移り住み、そこで排出される大量の屎尿の処理に困り、それらを東京周辺の農家へ運搬するべく、物資が不足する中、貨車を数両改造してこれに充当させた、との記述があります。
(旧)西武鉄道は、終戦直後の武蔵野鉄道との合併時に西武農業鉄道と社名を変えていますが、屎尿の運搬はこの時期のみに見られた業務のようで、昭和20年代末には既に屎尿運搬用の貨車は野方駅の側線に放置され、程なく廃車されたようでした。
by Takamine (2007-06-05 13:37) 

ChinchikoPapa

Takamineさん、こんにちは。
いろいろな説や伝承があるようですね。大正期の目白通り(清戸道)や中ノ道~雑司ヶ谷道などは、牛に引かせた肥車が絶えず行き来していたようですので、西武沿線から出た肥料を、より効率的な貨車輸送で運搬する・・・というのはかなりありえそうでリアルに感じたのですが。
もし肥貨物が走っていなかったとしますと、地元の伝承では「貨物輸送に使われていた」とされる証言をやはり聞きますので、鉄道敷設あるいは駅舎建設のためり建築資材を積んでいたものでしょうか。それら建設用の木材を積んで走っていても、おそらく伐りだした木を運んでいる「貨物列車」に見えてしまったかもしれませんね。
by ChinchikoPapa (2007-06-05 15:20) 

新宿3号

西武鉄道の社史 http://www.geocities.jp/hakutium/past/03.html (トップページ http://www.geocities.jp/hakutium/past/ )を読むと、下落合が終点であったという記述はありませんね。はじめから高田馬場が終点で、高田馬場は仮駅として開業し、翌年山手線をアンダーパスする工事を終え、現在のようになったと思われます。
開通当初から下落合も高田馬場も存在しているので、下落合駅が氷川神社前にあったというのは正しいかも知れませんが、終点であったとは考えにくいのでは?
あと、西武電気鉄道という名も不自然ですね。東京の鉄道の歴史を研究していてそのような名前は見たことが無いのですが・・・。現在のように西武鉄道になる前、開通当初は村山線だったのではないでしょうか。古地図にそのように記入されていたとしても、必ずしも地図が正しい名を掲載しているとは限らないのではないですか?少なくとも鉄道研究に関しては、そのような名前の鉄道会社が存在していたことは無いので、一般的には誤った呼称だと思います。
糞尿輸送についても社史に詳しく書かれています。Takamineさんの記述は少々間違いのようで、戦前にも一時期、糞尿を輸送していた事実が、同じく上記の社史年表中にあります。糞尿輸送が活発になったのが戦中~戦争直後のことだそうです。
by 新宿3号 (2007-06-11 18:54) 

ChinchikoPapa

いつでしたか、同じようなご指摘を受けたことがありますが、わたしのサイトは「公式記録」やいわゆる後に整えられてしまった「正史」、学者が発表しているアカデミックな「発表」などを基盤に書いてはいません。地元の証言や資料、記録、伝承などをベースに、地域史的なあるいは民俗額的なメディアとして、どこまでも位置づけています。
たとえば、「西武電気鉄道」の呼称は「誤った呼称」とされましても、そう表記されている地図、「豊多摩郡落合町全図」(1929年)、「淀橋区全図」(1933年)、「淀橋区詳細図」(1935年)、「改版・淀橋区詳細図」(1941年)、ついでに先ごろ復刻されたばかりで現在も書店で入手可能な人文社版による「東京区分図・淀橋区」(1941年)など、より地元に密着して作成されたのであろう資料を踏まえて書いています。これらの資料類は、東京の資料館や図書館であればほぼどこででも参照可能です。そしてもうひとつ、もっとも重要なのは、ここ落合地域に昔からお住まいの方々がいちばん多く呼称している、「西武電気鉄道」「西武電鉄」の前者を採用している・・・という経緯もあったりします。
それから、当初は“志もおちあひ”までの運行だったというのも、地元の複数の方々からの証言をはじめ、どこかの資料でも読んでいます。いま、自宅ではないので、それら資料を参照することができません。見つかりましたら、またこちらでご紹介しますね。
このあたり、サイトのスタンスについては、以前まとめてコメント欄に書いてますので、よろしければご参照ください。公式記録ではアホウドリは絶滅した・・・と国の学会が発表しているのに、地元の住民たちが「だって、目の前で飛んでるよ」と確認していた・・・というような、妙な例えなどもまじえながら書いた憶えがあります。10コメントあたりだったでしょうか。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2005-10-19
by ChinchikoPapa (2007-06-11 19:33) 

新宿3号

きちんと調査されていて資料的価値も高いのに、もったいないですね。誤認識されたままでは、他の内容に関しても信用が薄くなり、見る人ががっかりすることもあるかと思います。不特定多数の人間が閲覧することを前提にしているのですから、何かしら対応をお考えになったらいかがでしょう。同じような指摘を以前にも受けてらっしゃるということは、それだけ気になっている人がいる、ということではないですか。
考え方は色々あるでしょうが、これだけ価値の高い資料を作成されているのに、もったいない限りです。本当に残念です。
by 新宿3号 (2007-06-12 12:09) 

ChinchikoPapa

新宿3号さん、いろいろご指摘をありがとうございます。
先の「西武電気鉄道」の表記ですが、地元の新宿区教育委員会がまとめた資料類、たとえば『新宿区の民俗(4)』(1990年)の34ページをはじめ、そこここに顔を出します。これは旧・淀橋区時代をへて、かんじんの地元落合の『落合町誌』(1932年)はどうかというと、やはり「西武電鉄」と略呼称で登場しています。ついでに、氷川明神のまん前にあった旧下落合駅についての表記もみられ、それを現在地へと移す運動をした昔日の下落合人士たちの活動までが記録されています。つまり、あとから整えられ化粧直しされて机上でまとめられた「歴史」よりも、わたしはその現場そのものの資料や記憶、また当時の証言や記録の事実のほうこそ重視し、尊重するという立場をとります。
ついいましがたも、帝銀事件の“予行演習”にからんだ三菱銀行中井支店の位置が、地元の方によって確認されたばかりです。従来の日本史、日本近代史、その他資料類は、ほとんどが「中井駅前」の三菱銀行中井支店という表現をしていますが、実際には中井駅前などにはありませんでした。これも、あとから作られた(想像もまじえた)「歴史」と、現場(地域)史との乖離現象の典型例ですね。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2007-06-08
わたしは、こうして消されていってしまう事実、実際にあったことをまるでなかったかのように装い、時代をへた後日に「正史」としてまとめらた内容こそが、マユツバものだと考える視座にいます。
それから、下落合駅が終点の件、これも地元の証言もそうですが、確かにどこかの資料にも複数記載されていた記憶があります。といって、膨大な資料類がたまっていますので、見つかりましたら随時こちらへ書きますが、すごく気長にお待ちください。
by ChinchikoPapa (2007-06-12 14:31) 

Takamine

ChinchikoPapaさんこんにちは。山手線での事故の記事、興味深く拝見しました。私も以前、鉄道事故を分析した書籍で、この事故の件を読んだことがあります。
さて、何度もたびたび蒸し返しているようでいささか申し訳なくも思いますが、西武線開業時の高田馬場駅の場所について、興味深い証言を発見しました。
鉄道趣味専門誌「レイル」のNo.28に、根本茂氏という老鉄道ファンの方の思い出話が掲載されておりました。
氏によれば、昭和のはじめ(おそらく西武線開業直後なので昭和2~3年頃のご記憶と想定されます)、氏が狭山湖方面への遠足のために高田馬場で省線から西武線に乗り換える時の話で、現在とは山手線の反対側、省線の駅を出て早稲田通りの向い側、山手線の土手の下にへばり付くようにして建っていた、とありました。
具体的なロケーション等は不明ですが、昭和2年というピンポイントでの古地図が無い限り、なかなか場所の特定は出来ませんよね・・・。個人的には、さかえ通り沿いが怪しいのでは・・・?と、何となく思っております。
この辺の調査、ご研究などの予定がもしあれば、楽しみにしております。
by Takamine (2007-08-06 17:10) 

ChinchikoPapa

Takamineさん、いつも情報をありがとうございます。
わたしのほうも、あれから鉄道開設時の記述に注意しているのですが、意識的に探そうとするとなかなか見つからないものですね。(笑) 二度ないしは三度ほど、そのような記述を目にした憶えがあるのですが、一度は西武電鉄の終点から省線の高田馬場駅までは距離があり、橋を渡っていかなければならなかった・・・というもので、これは3年前の目白文化村に関する文献を片っ端から漁っているときに通過した資料だと思います。橋をわたるということは、必然的に神田川の北側に存在したということになり、同じ記述内に氷川明神前の「志もをちあひ」駅の描写があったように記憶しています。
もうひとつは、名取義一『東京・目白文化村』の中の記述だったものか、あるいは「目白文化村の総合的研究」の中だったのかはっきりしませんが(手元ですぐに参照できないのが歯がゆいのですが)、山手線・高田馬場駅まで「だいぶ歩いた」という思い出の記録で、この記述が事実だとしますと、山手線・高田馬場駅近くの土手沿い、あるいは栄通りに駅があったとすると、「だいぶ歩いた」という表現とが一致しなくなってしまいます。
開通直後は、「志もをちあひ」(またはその駅の位置)が終点で、すぐに仮設の高田馬場駅が追いかけて完成したものでしょうか? ちょっと歯がゆくて、気持ちの悪い齟齬ですね。
by ChinchikoPapa (2007-08-06 23:49) 

通りがかり

簡単に事実だけ。
昭和3年7月15日「訂正」の当時の「最新東京郊外地図」。(地形図ではない)

下落合駅は「氷川神社」の南東側踏切のすぐ西
「西武鐵道村山線」の高田馬場駅は山手線を東へ直進で突き抜けた所(線路がここで南へ直角に折れる描写)
駅の位置や線形は幾分か適当な様です。

高田馬場―早稲田間は高田馬場付近で山手線と並行した後、東へ直角に折れ、ほぼ現在の「諏訪通り」に沿う経路で「早稲田」へ。
「早稲田」は都電の「早稲田」の少し東。「西早稲田保育園」の辺り。
下落合から直進する現「新目白通り」ルートではありません。
そして、ここでも「実線」表記。
有る事になっています(笑)。
by 通りがかり (2017-09-07 14:46) 

ChinchikoPapa

通りがかりさん、コメントをありがとうございます。
この記事は、いまから12年も前の記事ですので、いろいろ不備な記述も多いですね。その後、氷川明神前の下落合駅の設計図面(平面図)の入手とともに設置位置も特定しています。
また、地下鉄「西武線」に関しましても、国立公文書館で免許書類や計画図面を見つけ、すでに戸山ヶ原の陸軍射撃場や近衛連隊との稟議文書も含め、こちらでご紹介してきました。もし、この記事だけで上記のコメントを書かれたのでしたら、ぜひ他の記事も参照いただければ幸いです。
by ChinchikoPapa (2017-09-07 15:58) 

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