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大賀一郎が開催した不忍池「観蓮会」。 [気になる下落合]

不忍池精養軒.JPG
 「古代ハス(大賀ハス)」の種子を発見した大賀一郎Click!が、柏木の蜀光山 (現・北新宿1丁目)に住む内村鑑三Click!主宰の「聖書研究会」Click!へ参加したのは、一高生になったばかりの1902年(明治35)ごろからだった。南原繁Click!が、内村の聖書研究会で「白雨会」を結成する、およそ7年ほど前のことだ。大賀は岡山ですごした幼年時代、すでに岡山教会で洗礼を受けている。
 一高へ入るために東京へくると、さっそく同級生の安倍能成Click!たちと柏木の内村鑑三を訪ねているが、「教会を脱退しろ」といわれ本郷教会を去っている。当時は本郷に下宿していた大賀一郎は、下駄ばきで柏木の聖書研究会まで歩いて通うことになった。当時の聖書研究会には、小山内薫Click!有島武郎Click!志賀直哉Click!、天野貞祐などが頻繁に顔を見せている。
 そのときの様子を、1961年(昭和36)に発行された「月刊キリスト」4月号(日本基督教協議会)所収の、インタビュー「わが信仰の生涯」から引用してみよう。
  
 (内村鑑三は)岡山で知ったんです。『聖書研究』の出ない前、『東京独立雑誌』というのがありまして。(略) 店頭に出ておりましたからね。五銭でした、雑誌が。月三回で。当時本郷から新宿までげたをはいて歩いていくんですから、三時間かかりますね。内村先生もあとになってはだいぶひらけて、丸の内に出ていらっしたが、その時分は貧乏でしたからね。幸徳秋水や境枯川(利彦)なんか『万朝報』でやった時分ですからね。(略) 南原くんは七十二、三です。わたしは八十ですからね。あの人は七年ぐらいあとですね。(略) (内村鑑三の)家が狭いですから。このくらいのへや<六畳>ですから、二十人定員でしたよ。あのころいったのは志賀直哉、高木八尺、それから黒木――黒木大将の息子、そんなのがいましたね。(略) 野武士時代です。塚本くんや、藤井<武>、田島、三谷<隆正>、鶴見<佑輔>、ああいう連中は新渡戸先生の弟子だったんです。新渡戸先生は自分は教養を教える、宗教は内村がやるというので、自分の弟子を内村先生にゆずったんです。そのときにそういった連中がごっそりいったんですね。そして、柏会ができて変わったんです。野武士のあとはずっと一高、東大の連中がごっそり二、三十人きて、上品になったんです。(カッコ内引用者註)
  
 聖書研究会は、会費(献金)がわずか月1銭しかとらず、柏木919番地の内村鑑三は極貧にあえいでいた。しかも、学生たちの学費を援助するため、著作の校正作業には1回50銭でアルバイトとして雇ったため、貧乏生活に拍車がかかったらしい。
 現代の学生と教授の関係とは異なり、明治後期の学生たちは講義を終えると、自身の尊敬する“先生”の自宅を訪ねるのがふつうだった。ちょうど大賀一郎が一高・帝大時代をすごしていたころ、訪問先でブームになっていたのが内村鑑三と夏目漱石Click!だった。安倍能成Click!は、内村家と夏目家の双方に顔を出していたようだ。
大賀一郎帝大時代.jpg 内村鑑三.jpg
蓮糸織物.jpg
 大賀一郎がハスの研究に取り憑かれたのは、25歳ぐらいのときだったといわれている。もともと水草には興味があったらしいが、特にハスに注目して研究をつづけ古代ハス(大賀ハス)を咲かせることに成功している。さらに、當麻寺(当麻寺:たいまでら)に伝わる「當麻寺蓮糸曼陀羅」からハス糸に興味をおぼえ、曼陀羅から糸へ、糸から繊維へと研究の対象は拡大していった。府中に住んでいた晩年には、大賀ハスを育てて研究をつづけるかたわら、布目文の研究にも取り組んでいる。布目文とは、もちろん府中国分寺の屋根に用いられた、朝鮮様式の「布目瓦」のことだ。
 ちょっと余談だが、大賀一郎は府中の国分寺跡を散策しながら、数多くの布目瓦の破片を採取しているが、わたしもまったく同じことをしたことがある。小学生のわたしが、布目瓦の破片を求めて散策したのは、府中ではなくナラ・斑鳩の里にある法隆寺の若草伽藍跡だ。現在の法隆寺が再建される以前、創建法隆寺(本来の法隆寺)が建っていたとされる若草伽藍跡では、親父が同寺の事務所で交渉したものだろう、僧が若草伽藍跡の門鍵を開けてくれて中を自由に散策することができた。
 巨大な礎石がポツンと残る若草伽藍跡は、広く芝に覆われていたが、ところどころに黒い土面が露出していて、そこには布目瓦の破片が数多く露出していた。それをいくつか拾い集めて僧に見せると、「掘れば無数に出てくるから、記念に持ち帰っていいよ」といってくれた。その破片は、いまでもわが家のどこかにあるのかもしれないが、ここしばらく見ていない。布目瓦の布目を観察・研究することで、その繊維がどのようなものなのか、あるいはなんの糸が使われているのかを想定することができる。大賀一郎は、最晩年を国分寺に葺かれた布目瓦と、朝鮮様式の繊維の研究に費やしている。
大賀一郎邸跡.JPG
布目瓦.jpg
府中国分寺跡.JPG
 さて、大賀一郎は1935年(昭和10)から戦争中を除き死去するまで、上野の不忍池Click!でハスの花を愛でる「観蓮会」を開催している。きっかけは、ハスの花が開花するとき「ポンと音がする」という迷信を否定するために、マイク片手に開花の瞬間をねらって録音するプロジェクトを起ち上げたときらしい。この試みには、同じ植物学者である牧野富太郎の実証主義的な姿勢から、少なからぬ影響を受けているようだ。牧野は、大賀よりも20歳年上だった。以下、1957年(昭和32)に発行された「採集と飼育」6月号(日本科学協会)所収の、大賀一郎『牧野富太郎先生の思い出』から引用してみよう。
  
 今から二十三年前の昭和十年に、初めてハスの会を上野不忍で催した時などには、(牧野富太郎は)第一に馳せ参じて、明け行く空に、ハスの無音無声の開花に注視、聞き耳を立てて下さった。あの時には三宅驥一、鳥居竜蔵、入沢達吉、岡不崩、石川欣一、河野通勢などの諸先生と豪華な勢揃いをした事であったが、その翌年(牧野富太郎)先生と私と二人不忍池畔で早朝マイクの前に立って再検討の耳を傾けたのは、今になってよい思い出である。ハスの事については先生がよく『理学界』誌にお書きになったのが我が国の最初の文献で、植物の事では何にでも先鞭をおつけになった先生は、ハスの事でもまた先覚者であられた。
  
 第1回「観蓮会」には、このサイトにもときどき登場する鳥居龍蔵Click!をはじめ、河野通勢Click!岡不崩Click!の名前が見えている。医師の入沢達吉は一度、歯科医の医療行為を妨害する島峰徹Click!エピソードClick!で取り上げただろうか。
 目白通り北の長崎の洋画家・河野通勢と下落合の日本画家・岡不崩だが、このふたりの作品にハスを描いた画面があるとすれば、上野不忍池で行われた大賀一郎の「観蓮会」で写生された「大賀ハス」の可能性が高い。河野通勢の作品にハスの記憶はないが、岡不崩の軸画あたりにはありそうな気がする。ご存じの方がいれば、ご教示いただきたい。
大賀一郎晩年.jpg
牧野富太郎邸庭.JPG
牧野富太郎書斎.JPG
 ところで、「大賀ハス」の根は食べられるのだろうか? 食い意地の張ったわたしとしては、気になるところだ。食用のハスと同様に、大きな穴が空いた根をしているのだろうか。縄文人が食用に栽培していたかどうかは不明だが、3000年前の丸木舟といっしょに出土しているところをみると、食べていた可能性がありそうだ。蓮根は「穴がおいしいのです」といったのは内田百閒Click!だが、どのような味がするのかとても気になる。


◆写真上:上野精養軒の屋上から眺めた、ハスが繁る夏の不忍池。
◆写真中上上左は、帝大時代の23歳ごろの大賀一郎。上右は、柏木で聖書研究会を主宰した内村鑑三。は、ハス糸を使った織物でこしらえたマフラー。
◆写真中下は、上落合467番地の大賀一郎邸跡の現状。は、法隆寺の若草伽藍跡(創建法隆寺跡)から出土した布目瓦の密タイプ(左)と粗タイプ(右)。は、大賀一郎が晩年に布目瓦を探してよく散策した府中の国分寺跡。
◆写真下は、晩年の大賀一郎。は、東大泉にある牧野富太郎の庭(牧野記念庭園)。は、現存する牧野富太郎の書斎(研究室)。


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