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1954年(昭和29)の新宿区と落合地域。 [気になる下落合]

新宿区勢要覧1954.jpg
 1947年(昭和22)3月に四谷区と牛込区、そして淀橋区が合体して成立した新宿区が、スタートから7年めに発行した「新宿区勢要覧/昭和29年版」を、ある方からお譲りいただいた。空襲による焼け跡がようやく目立たなくなり、新宿の繁華街に活気がもどってきたころの区勢要覧だ。すでに発行から55年の歳月が流れて黄ばんだ表紙には、北は目白駅~哲学堂Click!、南は絵画館~神宮球場まで、新宿区全体のイラストマップが描かれている。
 同要覧には、さまざまなデータや施設・名所案内が掲載されているのだけれど、空襲によって新宿区エリアにある市街地の約90%が焦土と化した敗戦から9年、筆者も復興しつつある街並みを眺めて感慨がひとしおなのか、その出だしはちょっと講談めいた調子で感傷的になっている。
  
 いまは昔、お江戸東京は、東海道、中仙道、日光街道、甲州街道などから、政治、文化の交流が、飛脚、馬、かごなどによつて行われ、新宿は、その甲州街道の、いまでいう始発駅であつた。/関東奉行内藤修理亮清成が、家康からこの土地を賜り、内藤氏がこの街道取締りの任にあたつたので、今の追分附近を「内藤新宿」と呼んでいた。/それから幾星霜-----/飛脚や、飯盛女のさんざめいた宿場の容ぼうは転々変化して、今の大新宿としていん賑を極めるようになつた。/(中略)人口33万有余、面積18平方粁強で、西え西え(ママ)と移行する東京の都心がこの「新宿」であるといつても過言ではあるまい。(同要覧「新宿というところ」より)
  
 文中には33万有余と書かれているけれど、同年の新宿区の正式人口は319,977人。2008年現在の新宿区の人口は310,206人だから、当時のほうが住民は1万人弱ほど多かったことになる。新宿の周辺が繁華街化、またはオフィス街化するにしたがって、人口は少しずつ減ってきているのだろう。また、当時区内に在住する外国人の数は3,214人、2008年現在では31,856人と10倍に増え、都内ではもっとも外国人の居住が多い区となっている。区内人口は、新宿区が成立した当初は16万人弱だったので、7年間でおよそ倍増している。この急激な人口増加は、下町Click!から山手へと多くの住民が移動した、1923年(大正12)の関東大震災Click!以来の膨張だったろう。
高田馬場駅ガード1954.jpg 神楽坂1954.jpg
 1954年(昭和29)当時における新宿駅の1日平均利用客は70万人余と、東京駅と大阪駅に次いで全国第3位となっている。文中では、「西え西え」と都心が移動するのを早くも予言しているけれど、2008年現在の新宿駅の1日平均乗降客は346万人(西武新宿線・西武新宿駅を除く)と、当時の5倍にふくれあがり、東京駅や大阪駅を抜き世界でいちばん利用客が多い駅として、ギネスブックに登録された記憶もまだ新しい。区内の人口はあまり変化していないのに、新宿エリアが東京の巨大なターミナル、あるいはハブとしての役割りを果たしているのがよくわかる数字だ。
 この「新宿区勢要覧/昭和29年版」が面白いのは、さまざまなデータや区内の施設・名所を紹介している裏面が、今日でもよく見られる大判の地図ではなく、当時の新宿区全体を撮影した空中写真を印刷している点だ。同年2月22日に撮影された空中写真は、ちょうど新宿区がスタートした1947年(昭和22)に米軍のB29が爆撃効果測定用として撮影した焼け跡だらけの写真と比較すると、街並みが急速に復興している様子がうかがえる。「要覧」が発行された翌年、1955年(昭和30)に出版される『新宿区史』には、米機によって撮影された焼け跡だらけの空中写真が収録されているところをみると、おそらく当時それを見た区の担当者たちが多大なショックを受けたのだろう。米軍の空中写真を、戦後の「ゼロからの出発点」として位置づけ、定期的に発行される「要覧」には復興しつつある新宿区の空中写真を、次々と撮りつづけていたものと思われる。
落合地域1947.JPG
落合地域1954.jpg
 落合地域を眺めてみると、ほとんど空襲を受けなかった下落合西部の芸術村=アビラ村Click!(現・中井2丁目界隈)や西落合は別にして、ところどころに空き地がまだ散見されるものの、上落合と下落合ともに住宅街がほぼ復活しているのがわかる。真冬に撮影された空中写真なので、樹木の葉が落ちているぶん市街地の様子がよく見えている。相馬邸Click!跡の御留山Click!は、「おとめ山公園」として保存される10年前の姿だが、南側の谷戸部分と弁天池の周辺がなんらかの開発で丸裸となっている。いまだ東邦生命の所有地となっていたころの姿で、現在の弁天池は「精魚場」Click!としてコイかフナ、ニジマスなどの養殖場に使われていたものだろうか。
 薬王院の北側の森は、伐られたままで相変わらず大きな空き地のように見えるが、激しい空襲を受けた聖母病院周辺の第三文化村や府営住宅、また諏訪谷Click!から北側の住宅街は、そこここに空き地が目立つものの家々が建ちはじめているのがわかる。また、開通して間もない山手通りClick!(環6)によって東西に分断された、目白文化村Click!の第一・第二・第四文化村の焼け跡にも、新たな住宅が建設されているのが見える。そして、落合地域でもっとも顕著なのが上落合の復興だ。上落合地域は、米軍に川沿いに展開する戸塚町つながりの工場街と誤認されたものか、ほぼ全域が激しい爆撃で焼け野原となった。1954年(昭和29)のこの時点で、すでに戦前と同じぐらいの密度で住宅街が復旧しており、「バッケが原」Click!と呼ばれた妙正寺川沿いの草原にも、宅地化の波が押し寄せているのが見てとれる。
戸山ヶ原1954.jpg
戸山ヶ原1937.jpg 西戸山団地1956.jpg
 新宿区の全体を見わたしてみると、もっとも目立つのが旧・陸軍の広大な軍事施設があった戸山ヶ原Click!の消滅だ。戦後の住宅不足を解消するために、戸山ヶ原には次々と団地や復興住宅が建てられつづけ、この「要覧」が発行された時点では、ほぼ全域が家々で埋め尽くされている。でも、空中写真をよく見ると、近衛騎兵連隊の兵舎Click!をはじめ、射撃場Click!、第一衛戍病院、軍医学校Click!、陸軍幼年学校など旧軍のコンクリート建築(一部廃墟)や施設跡が戦前のままの姿で残っており、いまだ戦争や軍都・新宿の記憶が生々しかった時代の様子を写しとっている。

■写真上:1954年(昭和29)3月に発行された、「新宿区勢要覧/昭和29年版」表紙と表4。
■写真中上は、1954年(昭和29)の高田馬場駅ガード。1949年(昭和24)に駅前へ都電が乗り入れ、学生街の賑やかさを増すころ。は、飯田橋駅の改札近くから見た同年の神楽坂。
■写真中下は1947年(昭和22)にB29が、は1954年(昭和29)に区が撮影した落合地域。
■写真下は、1954年(昭和29)の戸山ヶ原一帯の様子。下左は、冬はスキーが流行った1937年(昭和12)の戸山ヶ原の情景。下右は、1956年(昭和31)に完成した西戸山団地。
 


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そんなに「高」くしなさんな。 [気になるエトセトラ]

八つ山橋.JPG
 旅行や出張の帰り、電車の窓から見える景色で「やっと地元にたどり着いた」と、ホッとする風景がある。東海道本線だと、大磯の湘南平や馬入川(相模川)鉄橋、多摩川の六郷鉄橋、品川の八つ山橋・・・と数が多いのだが、新幹線の場合は八つ山橋が昔から印象深い。新幹線が八つ山橋や京浜急行の八つ山鉄橋をくぐると、「東京へ無事に帰れた」・・・と安心するのだ。
 わたしが子供のころ、八つ山橋は太い鉄骨を組み合わせた独特なアーチ状のデザインをしていて、この橋梁の姿がよけいに印象深く感じたのだろう。1985年(昭和60)にアーチ橋梁は姿を消したのだが、京急の鉄橋のほうは元のままのようだ。八つ山の海は、現在は埋め立てられて海岸線がはるか東へ遠ざかっているけれど、1954年(昭和29)には初代ゴジラが上陸した海岸として知られている。ゴジラが保安隊、あるいはできたての自衛隊と死闘を演じていたとき、八つ山橋にはいまだ赤い進駐軍向け「WELCOME TO TOKYO」の卑屈なネオンサインが光っていたのだろう。
 「八つ山」という当て字は、おもに明治以降の表現であり、江戸期の『江戸名所図会』には「谷山(やつやま)」、また尾張屋清七版の「江戸切絵図」には「谷ツ山」と採取されている。「谷」のことを「ヤツ」と発音する地域が、南関東の海岸線沿いであるのが、原日本語(アイヌ語に継承)の地名音の変節や、後世に当てはめられた漢字を考慮すると非常に興味深い。
 原日本語で「ヤトゥ(yatu)」Click!は「脇の下」、陸や丘へ入りこんだ谷(小谷)を意味するのだが、この「トゥ」という発音を「ツ」と聞き取り、「谷」1文字で「ヤツ」と発音しているのが東京や神奈川、千葉の海岸線沿いには多い。ところが、ほんの少し内陸に入ると、「トゥ」の発音を「ト」と聞き取り「戸」を当てはめて、「谷戸」と漢字2文字で表現している。海っぺりに住んだ人々と、やや内陸寄りに住んだ人々との間で、地域方言の差とみられる「トゥ」の変化ないしは転訛が見えて面白い。
め組の喧嘩.jpg
谷ツ山1857.JPG 品川1947.JPG
 八つ山というと、すぐにも竹柴基水の芝居『神明恵和合取組(かみのめぐみ・わごうのとりくみ)』が思い浮かぶ。いわずと知れた「め組の喧嘩」Click!だ。この喧嘩は実際にあった事件を台本にしており、当時の町奉行や寺社奉行、はては勘定奉行まで巻きこんだ大きな騒動として、江戸期から広く知られていた。この芝居の序幕に登場するのが「八つ山下の場」で、品川の東海道沿いにあった料亭・島崎楼から帰る力士の四ツ車大八を、鳶の辰五郎が待ち伏せして襲う場面だ。
 江戸期の力士は傲慢な者が多く、町人よりも身分が上だと考えて横柄にふるまうことも多かった。め組みの若い火消しを、「鳶風情」と見下したのがケンカの原因だ。品川の海岸線は、燈火もなにもない漆黒の闇なので、芝居ではお互い手探りでケンカをするという、滑稽な「だんまり」手法Click!が用いられている。「モシ旦那、角力だって鳶の者だって同じ人間だ。そんなに安くしなさんな」という火消し辰五郎の言葉に、芝居が上演された明治以降の庶民の思いもこめられていたのだろう。現在でも、この芝居に使われる書割(かきわり)がそうであるように、八つ山下は彼方へとつづく海辺の砂浜で、沖には台場が見える風景となっている。
 東海道線は当初、渚あるいは海を埋め立てた線路土手の上を走っていたのだが、いまや行けども行けども海が見えてこない。ゴジラがやってきた1954年ごろも、埋め立てはかなり進んでいたが遮蔽物(高いビル)はまったくなく、いまだ潮の香りが強く漂っていただろう。現在は、この埋立地に品川駅東口をはじめ高層ビルや高層マンションが林立している。わたしは、東京大空襲Click!の話もさんざん親から聞かされて育ったけれど、関東大震災Click!安政大地震Click!についても地域の記憶として吹きこまれている。だから、乃手Click!の比較的堅牢な地面の上に建てるならまだしも(それでも危険いっぱいだが)、地盤が脆弱な埋立地に高層ビルを建てるなど、狂気の沙汰としか思えない。
八つ山橋1950頃.jpg 八つ山橋柱.JPG
 故郷Click!が同じ小林信彦Click!の話を、『江戸東京物語』(新潮社編/2002年)から引用しよう。
  
 関東大震災のあとで建てられた日本橋三越、日本橋高島屋----あの高さを限度と定めたのは当時の日本人の知恵である。(中略)/NHKのテレビ番組で超高層ビルの発案者を偉い人のように扱っていたが、いずれ、大地震がくれば、わかる。高速道路は崩れるか、火の海になるとぼくは思う。/関東大震災後の東京再建までは、江戸以来の知恵が生かされてきたのに、太平洋戦争後の高度成長で、すべてが消えた。いけいけどんどん、といういやな言葉があるが、そのままバブル経済まで突っ走り、いまや、どうしたらよいかわからないところまできた。(中略) 高層ビル、マンションの少なかった江東区にも、急に柱のようなものが多くなった。東京湾の花火見物もままならない。ものごころついた時から、関東大震災の怖さを吹き込まれた身としては、そろそろかな、と思わぬでもないのだが。 (「東京原人-二十一世紀のつぶやき-」より)
  
東海道線.JPG 品川駅東口.JPG
 大手建設会社のCMで、次々と建てられる高層ビルの映像を背景に、「止めるな。この国の、変わろうとする力を」というキャッチフレーズが入る作品がある。相変わらず土建国家の発想が抜けないのも哀しいが、地元の人間の話に耳を傾けず「増やそう。もっと大地震の犠牲者を」と言っているようで、近来にない最悪のCMだと思う。大江戸の恥はかき棄てClick!、万が一のときは「疎開」と称して故郷へ逃げ帰れClick!ばいいわけで、あとはどうなろうと知ったこっちゃないのかもしれないが・・・。

■写真上:品川にかかる東海道の八つ山橋と、京浜急行の八つ山鉄橋。わたしが子供のころは、アーチ状の印象的な橋梁だったが、「WELCOME TO TOKYO」のネオンはとうになかった。
■写真中上は、昭和初期と思われる『神明恵和合取組』(め組の喧嘩)の舞台写真。左から2代目・実川延若の四ツ車大八、7代目・市川中車の喜三郎、15代目・市村羽左衛門の「め組」辰五郎。下左は、1857年(安政4)に作成された尾張屋清七版の「芝三田二本榎高輪辺絵図」に採取された「谷ツ山」。下右は、1947年(昭和22)に米軍が撮影した品川駅界隈の空中写真。
■写真中下は、1950年前後の八つ山橋。は。いまも保存されている旧・八つ山橋の橋柱。
■写真下は、八つ山橋の上から東海道本線などを望む。この下をくぐると、地元へもどった安堵感がひろがる。は、品川駅東口に立てられた高層ビル群。


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明治時代の山手線ガードを見つけた。 [気になる神田川]

神田川ガード1.jpg
 ウッカリしてた。自分でも呆れるほど、ボンヤリしていた・・・。佐伯祐三Click!が描いた『下落合風景』Click!の1作、レンガ造りの「ガード」Click!だが、おそらく昭和初期にコンクリートで被われ、道路の拡幅工事とともに補強・改築されてしまっている。もはや、明治期に造られたレンガ造りのガードは、下落合の近辺には存在しないとあきらめていた。新宿界隈の山手線ガードは、線路の増設や電車の増発、あるいは車両編成の長大化にともない、特に戦後は線路土手の補強が進んで、明治期の品川・赤羽鉄道線の面影などとうになくなってしまった・・・と勝手に思いこんでいたのだ。
 ところが、雑司ヶ谷道(東京府による戦前からの命名は新井薬師道)に架かる佐伯が描いた「ガード」のごく近くに、往年のレンガ造りガードはそのままの姿で現存していた。「佐伯ガード」から、わずか南へ300mほど下がった神田川に架かる鉄橋の線路土手、北から順番に十三間通り(新目白通り)のガード、西武新宿線のガード、そしてその次にある山手線の神田川鉄橋ガードの東側(神高橋側)が、おそらく明治時代の仕様をそのまま残した姿なのだ。
 わたしは、下落合1丁目側の清水川橋などの上から、この神田川鉄橋の西側を眺めることが多かった。ところが、西側は1950年代の前半に、神田川の洪水対策のための護岸工事が行われ、その際に同ガードの西側全体がコンクリートで被われてしまったため、レンガはほとんど見えなくなっている。この橋梁工事を含む護岸工事が完成したのは戦後、1955年(昭和30)のことだ。だから、いくら下落合側から同鉄橋を眺めても、レンガ造りの様子を目にすることはできなかった。
山手線神田川鉄橋1955.jpg
 もうひとつ、同鉄橋の東側(戸塚側)に架かる神高橋は、会社への行き帰りにときどき利用するのだけれど、1990年代後半からずっと神田川の改修を含む工事中の状態がつづいていて、西武新宿線や山手線の鉄橋が架かる神高橋の西側(下落合側)が、高さ3~4mほどの工事フェンスで遮断されて見えず、ずっと気がつかなかった。もともと小さな児童遊園があった場所へ、新たに戸塚地域センターが建設されているので、おそらく自治体が中心となる大規模な工事だったのだろう。また、わたしは山手線の高田馬場駅あるいは目白駅を利用するので、同線の走行車両の真下にある鉄橋の橋梁や線路土手の様子は、そもそも見えるはずがなかったのだ。
 いまだ、レンガ造りそのままの橋梁や土手に気づいたのは、たまたま聖母坂の地域センターに用事があり、めずらしく下落合駅Click!から西武新宿線を利用して次の高田馬場駅Click!に向かったときのことだ。走行方向の右手のドア際から、何気なくボンヤリ外を見ていたら、思わず「アッ!」と声をあげてしまったので、近くにいた人たちは不気味に感じて少し距離を広げたかもしれない。目の前に、佐伯が描いた「ガード」の仕様と、おそらく同じ工法で造られた線路土手のレンガ構造物が、そのままの姿で左から右へ走り去っていった。おそらく、佐伯が生きて目にしていた時代の神田川鉄橋(東側)も、この状態とさして変わりはなかっただろう。そして、当時の雑司ヶ谷道(新井薬師道)のガード仕様も、この鉄橋とまったく同じ仕様で造られていたにちがいない。
神田川ガード2.JPG 神田川ガード3.JPG
神田川ガード4.jpg 神田川ガード5.jpg
 神田川鉄橋の橋梁や、線路土手の様子を細かく観察すると、そのレンガ積みに独特な工法を確認することができる。レンガは、その積み方によって強度をいろいろ変更できる特性があるそうで、レンガを横にして積んでいく、ごく一般的な構築法=「長手積み」に加え、レンガを縦にして壁面をかなり厚くし強度を増す「小口積み」、縦積みと横積みを1層ごと交互に繰り返し、高い強度を実現する「イギリス積み」、同じ列の隣り合うレンガを縦と横とで交互に積んでいく、複雑な「フランドル積み」などが代表的な構築例だ。山手線の神田川鉄橋(東側)の橋梁や、その周辺の線路土手に見られるレンガの積み方は、明らかに「イギリス積み」で構築されているのがわかる。イギリスから鉄道技術の導入を図り、明治期に活躍した鉄道技師たちの仕事を髣髴とさせる眺めだ。
 また、線路土手を鋭角に切り取り、その断面へていねいにレンガ積みをほどこしている様子も、佐伯が描くガードの工法にとてもよく似ているのがわかる。下落合の雑司ヶ谷道ガードは、幅の狭い道路上のガード(現在に比べ半分強ほどの道幅)だったので、列車の重量や本数が少なかった当時としては、それほどの強度は必要ないと思われたのか、ガードの南側土手や内部のみにレンガ積みをほどこし、北側の線路土手はむき出しの草原状のまま残されている。だが、幅の広い神田川鉄橋のほうは周囲をくまなくレンガ積みで覆い、強度を格段にアップさせていた様子がうかがえる。
雑司ヶ谷道ガード.JPG 佐伯祐三「ガード」(部分).jpg
 佐伯祐三は、雑司ヶ谷道(新井薬師道)に架けられたガードの橋梁や、線路土手に積まれたレンガの模様・質感をかなり大雑把に描いており、その積み方まではこと細かに表現していない。でも、このガードのレンガ積みもほぼ間違いなく、神田川鉄橋と同じ「イギリス積み」だったにちがいないのだ。ちなみに、佐伯が1926年(大正15)に制作したと思われる「ガード」は、3月28日から新宿歴史博物館でスタートする、「佐伯祐三展-下落合の風景-」展覧会にも出品されることになっている。

■写真上:西武新宿線からとらえた山手線の神田川鉄橋。写真を撮影するために、再度下落合駅から乗車したのだが、今度は車内でカメラをかまえた不審人物と思われたかもしれない。
■写真中上:1955年(昭和30)に完成した、山手線鉄橋の西側(清水川橋側)のコンクリート護岸・補強工事。清水川橋の上からの撮影で、こちら側からではレンガ造りの橋梁や線路土手には、もはや気づきにくい。奧に見えているのは、下流に架かる西武新宿線の神田川鉄橋。
■写真中下:山手線の神田川鉄橋を、いろいろな位置や角度から撮影したもの。同鉄橋の南側にも、いまだレンガ積みの橋梁が残っており、いずれの構造も「イギリス積み」となっている。
■写真下は、道路の拡幅が行われた昭和初期の改築と思われる雑司ヶ谷道のコンクリートガード。は、1926年(大正15)に描かれた佐伯祐三『下落合風景(ガード)』(部分)。


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明治から大正初期の下落合風景。(3) [気になる下落合]

木戸1917.jpg
 小島善太郎Click!は、作品の出来が気に入らないと、そのまま写生現場へキャンバスを打ち棄てていったことはご紹介Click!した。明治末の戸山ヶ原でも、のちのパリ郊外のクラマールでもそうだったので、おそらく下落合でも同じことをしたのだろう。1968年(昭和43)に出版された『若き日の自画像』(雪華社)には、風景モチーフを求めて下落合を散策する小島の姿が記録されているが、それら作品の描画ポイントがどこなのか、あるいは現存する作品がどこの情景なのか、ほとんどはっきりしない。また、たとえば「落合風景」というようなタイトルもいっさい残されていないので、現存する作品と具体的な写生場所との照合も困難な状況Click!だ。
 再び同書から、当時の目白崖線に拡がる下落合の風景を引用してみよう。
  
 写生用の鞄を考案するとそれから写生に出かけるようになった。/丘には茂った常磐木の間から灰色の幹を出した落葉樹が、新芽を輝かしている。僕は田圃のあぜを若草を踏みながら歩いた。丘を登り、畠を越し、林に這入った。小枝に群る若芽が脚をとめさせうっとりして画も描かずこの春の幸福感に祈りたい気がした。自由というものが。(ママ) 小僧の身分から開放(ママ)されたことが、親の元で暮せることが。そして描こうと思えば許されているこうしたことが。
  
 おそらく、小島が小僧時代を脱出したあと、1910~11年(明治43~44)ごろの光景ではないかと思われる。いまでは、ほとんど誰も見たことのない下落合風景なのだが、明治末の丘上にはすでに、将来の住宅地開発を予感したかのように、主要な道筋にはニセアカシアの並木などが植えられはじめていた。でも、この時代の下落合は、東京郊外の新興住宅地というにはほど遠く、ところどころに華族屋敷やおカネ持ちの別荘が散在する、田園地帯と表現したほうが的確だろう。
 小島の描写から、はっきりと出かけた場所や描画ポイントを特定できる記述もある。大久保の中村覚邸へ書生として入ったのち、太平洋画会研究所の帰り道の様子だから、おそらく大正初期の情景だろう。さまざまな悩みを抱えて、彼はキリスト教会を訪ねている。
  
 九尺道路を北に四、五丁の突当りに煉瓦造りの変電所が在り、闇の中に只一つ窓から燈火を洩らしてジーンと云う底唸りを響かせていた。東に一丁。寺の森脇を曲って間もなく登り坂に出る。坂の左は畠。右には大欅が数本並木となって下に杉森が続き、片側を闇で包んでいる。坂を登り切る頃、寺内の方で、犬の吠える声が聞こえて来た。やがて人家の中に入り、三丁余り行くと、北側にささやかな基督教の会堂が在った。自分は其処に向かって行った。
  
目白変電所1918.jpg 目白福音教会1925.jpg
 書かれている「変電所」とは、1913年(大正2)に建設されたばかりの東京電燈・谷村線の目白変電所Click!だと思われ、戸山ヶ原の北側あたりで逡巡していた小島は、道筋を北へとたどって下落合にできたばかりのキリスト教会をめざしている。そのあと、「東に一丁」は「西に一丁」の誤記だと思われるが、寺はほぼ間違いなく薬王院だろう。「寺の森脇」の坂道とは、まだほとんど建物が見えず目白崖線に通うもっとも古い坂道のひとつ七曲坂Click!であり、また「右には大欅が数本並木となって下に杉森が続き」とあるのは、七曲坂の右手にある権兵衛山Click!(大倉山)の情景だ。大正の最初期、この権兵衛山の東側にある御留山Click!には、竣工したばかりの相馬邸Click!がそびえていただろう。そして、300mほど北上したところにある「基督教の会堂」とは、1912年(明治45)に開設されたばかりの落合福音教会(のち目白福音教会Click!)の建物にちがいない。
 大正の最初期、下落合に建っていた教会は、ヴォーリズが設計した宣教師館(メーヤー館)Click!の建物を含む、落合福音教会しか存在していない。小島は、この教会内に設置されていた聖書を学ぶ「学院」(のちの日本聖書神学校か)の建物を写生しており、その壁面がクリーム色で塗られていたことを記録している。すなわち、宣教師館(メーヤー館)の北側に建っていた、おそらくヴォーリズの同時設計とみられる旧・英語学校(のち牧師の宿泊施設としても使用)はクリームの外壁だったのであり、メーヤー館の外壁も当初は同色で塗られていた可能性が高い。中村彝Click!が、1919年(大正8)に『目白の冬』Click!で描いたメーヤー館の右手、画面の隅にチラリと見えている建物だ。
  
 学院の作は、クリーム色の洋館をバックに一本の桐の木があって、その桐の木の下では牧師らしい西洋人の夫婦が、庭先に持ち出したターブルを挟んで茶を喫んでいた。左手前にはイチジクの木が葉を擡げている。その上を初夏の陽が全面に落ちてクリームと緑と白の軽快な色調がわたしを酔わせ、毎日同じ時刻を計って描き続けて行った。(中略) この学院はアメリカ系のミッションで学校、宿舎、住宅が散在し、中に西洋人の宿舎があって、それを描いていた。わたしの背後にはこれらの人々が時々立ち止まっては眺めて行く。
  
メーヤー館2009.jpg 旧英語学校・聖書学院.jpg
 小島が描きとめた「西洋人の夫婦」こそが、宣教師館に住みはじめたばかりのメーヤー夫妻Click!だったろう。この作品が、あるいは作品画像が戦災をくぐり抜けているかどうかは不明だけれど、もし現存していたら、見れば描画ポイントがどこかはすぐにわかる。中村彝に先立つこと6~7年前、小島善太郎が同教会の風景画を制作していたとは驚きだ。
 また、イーゼルを立てた小島の背後には、意外な人たちが姿を見せる。少し長いが引用しよう。
  
 或る時、背後から話しかけた人の声に振り向くと、二十七、八の度の強い眼鏡をかけた痩せぎすな婦人が画面を覗きこむようにしている。「・・・・・・どちらでご勉強でいらっしゃるの?」 神経質らしい上流の人に見る気質を感じた。わたしが逆にたずねると、/「学習院の女学部で洋画を教えられ、その後高等科の時、黒田清輝先生に就いて学んでおりましたので・・・・・・」/「それで、いまは?」 好奇心が湧いてこう訊ねてみた。/「いまは事情がございまして、この学院におりますの・・・・・・」/「・・・・・・失礼ですが、お名前は?」 この質問は失言したと思った。/「徳川でございますの」と彼女は案外率直に答えた。/「元伯爵の?」/「はァ・・・・・・」 そう答えると不安気に背後をかえりみ、右手を頤に当てた。/「・・・・・・根が好きなものですから・・・・・・ついお邪魔も省りみず・・・・・・御無礼を申し上げました」/彼女は離れて行った。
  
クラマール小島アトリエ1924.jpg やわらかき光1914.jpg
 ここに登場している徳川家の女性は、当時から下落合の西坂に邸をかまえていた大垣徳川家Click!でも、のちに目白町の戸田邸Click!跡へ引っ越してくる尾張徳川家Click!でもない。不祥事から伯爵の爵位を返上している清水徳川家、徳川篤守の娘ないしは妹だろう。(小島は妹と書いているが、年齢が少し離れすぎている) 明治の中期まで、清水徳川家は山手線をはさんで下落合とは反対側(東側)、早稲田のバッケ上=甘泉園(現・甘泉園公園)に邸をかまえていたが、爵位の返上とともに、近くの目白・下落合地域へ引っ越して住んでいた可能性がきわめて高い。

■写真上:目白崖線の中腹あたりから、眼下に拡がる神田上水あるいは妙正寺川沿いの田畑を描いたように見える、1917年(大正6)制作の小島善太郎『木戸』。
■写真中上は、1918年(大正7)の早稲田1/10,000地形図にみる、1913年(大正2)に田島橋南詰めに建設された東京電燈目白変電所。は、1925年(大正14)改訂版の同図にみる、1912年(明治45)に建設された落合福音教会(のち目白福音教会)の建物。
■写真中下は、千葉へ移転後の宣教師館(メーヤー館)の現状。は、小島が大正初期に写生していたと思われる、メーヤー館の北側に建っていた旧・英語学校(元・聖書学院)の建物。
■写真下は、パリ近郊のクラマールにあった小島善太郎アトリエで、1924年(大正13)に撮影された記念写真。ここでもお馴染みの顔ぶれが見え、後列右から前田寛治、里見勝蔵、中列右から木下勝治郎Click!、小島善太郎、林龍作、川瀬もと子Click!は、1914年(大正3)に制作された小島善太郎『やわらかき光』。おそらく、書生をしていた大久保の中村覚邸を描いたとみられる。


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小島善太郎が見た中村彝。 [気になる下落合]

裸婦習作1908.jpg
 1930年協会Click!小島善太郎Click!は、大久保に住む陸軍大将・中村覚邸の書生になることで、下落合の極貧生活から脱している。そのころには、兄は行方不明ままで妹は殺害され、父母は相前後して病没し、残るのは奉公に出ている弟のみという家族構成になっていた。小島は、大久保の中村邸から谷中にあった太平洋画会研究所Click!へと通いはじめている。
 研究所へは、1910年(明治43)ごろから通学するようになったが、このとき研究所にはデッサンを勉強するひとりの「王者」がいた。この「王者」は、のちに病状が進むにつれて傲慢な性格は薄れていくようだけれど、当時はかなり我が強かったようで、研究所ではデッサンの空間を2人ぶん占領しながら描いていた。下落合へアトリエを建てる6年ほど前の、中村彝Click!の姿だ。1968年(昭和43)に出版された『若き日の自画像』(雪華社)から、少し長いが引用してみよう。
  
 研究所に一人の王者がいた。中村彝であった。私服の上に白いブルーズを着、その下から長い袴を窺かせた大男で、顔に一種の光沢を持った皮膚の白い額に、房々とした頭髪を乱した儘に垂らして、その飾らぬ風采は一見山男にも似た素朴さであった。その上、不潔な廊下を上草履も穿かず素足のままで歩いていた。/モデルのポーズの時間が来ると、彼も皆と一緒に描き続けていたのであるが、彼の描く動作は一山鳴動する----とでも云った風で、描く時には立った儘凝っとモデルを靜視していた。画面に賦色した時は一気に筆を描き下ろした時で、一度筆を加えた以上、彼は画面に賦色した上を捏ねるような事をしなかった。筆を下ろした直後、約一時間以上調子を見るため後ずさった。大男の彼が両脚を踏張った丈で一間以上は取っていた。後へ退った時はそれ以上をとるので、彼一人で二人分の場所を占有した。併し彼の緊張した動作のため皆は圧迫された感で苦情を申し出る者は無かった。
  
 小島は、身長が150cm前後とたいへん小柄だったので、当時の男性としては上背があった中村彝が、ことさらそびえるような「大男」に感じられたのだろう。この文章は、中村彝が太平洋画会研究所でデッサンをする姿を記録した、たいへん貴重な証言だ。
小島善太郎1922.jpg 自画像1909.jpg
 面白いのは、筆を下ろした直後、画面からやや離れて1時間以上もモチーフ(モデル)と線とをジッと仁王立ちして観察している様子だ。もうひとりのデッサンの「王者」、東京美術学校でデッサンのフェーズからなかなか離れたがらなかった佐伯祐三Click!は、どのような姿でモチーフを追いかけていたのだろうか? きっと佐伯のことだから、ためらうことなく猛スピードでデッサンを仕上げていったような気がするのだが・・・。1時間以上も、画面とモチーフを交互に見つめつづける中村彝とは、対照的な制作姿勢だったような気がしてならない。
 小島善太郎は、中村大将邸の息子に連れられて、新宿中村屋Click!で行われていた岡田虎二郎Click!静坐会Click!へも顔を出している。小島は、それほど静坐には惹かれなかったようだけれど、中村屋裏に建っていた柳敬助Click!のアトリエ(のち中村彝のアトリエ)や、荻原守衛Click!の碌山館は何度か訪ねている。再び少し長いが、貴重な証言なので引用してみたい。
  
 相馬という名刺を貰い、眼鏡の下に鼻髭を生やし、角ばった顔の相馬氏が部屋の壁に掛けてあった中村彝の油絵、房州海岸の丘Click!(二十五号程)の作を指して、/「これは、家内が希望して譲って貰ったのですが、中村さんは才子多病でお気の毒です」と云った。反対の壁には五十号位の油絵で、女史の病床にある像が掛けてあり、側で女史が、/「柳敬助さんにお願いして、病気でそのまま起きてないと思いましてねェ、妾を描いてお貰いしたのですよ」/此の作は文展で見た事を想い出した。その上には、八号位の母子像Click!が掛けてある。/「あれですか? あれは亡くなった緑山(ママ)(故荻原守衛)が、これも死にましたが、その子供を妾が抱えている所を描いてやろう----そう申されまして、一気に描いたものなのです」
  
柳敬助.jpg 新宿中村屋ロシアパン.jpg
 そして、小島は中村屋裏にあった柳敬助のアトリエをほどなく訪ね、中村彝と出くわしている。
  
 階下で呼び鈴を押して待つと階段に重い音がして、太いビロードのズボンに黒いジャケットを着た四十前後の、頭髪をふり乱した敬助氏が降りて見えた。/「どうぞ・・・・・・」と階段の中ほどから僕に向かって云われた。階段には絨毯が敷かれ、氏に従って二階に上がるとそこが洋間で、洋風の飾り物が落着いた色彩りで巴里の室内もかくやと思わせる。中央寄りわずか片寄った所にストーブがあり、その傍で三十前後の和服を着た二人の男が椅子に掛けて語っていた。一人は研究所で見ていた中村彝氏であった。デッサンを見て貰ったことがある。柳氏が紹介してくれた。/「僕は高村です」と飾り気無く一人が名乗った。光太郎氏なのであった。(中略) 「光太郎君の作ですよ、明るい仕事でしょう」 夏の庭先が水々しく軽快に描かれてある。彝氏は眸をその絵に向け、当の光太郎氏も振り向いて自作を一瞥した。(中略) 此等の作を見ていると自分の作が気になって来て、そこで柳氏に、「実は初めて風景画を描いているのです。一度批評してお貰いしたいのですが・・・・・・どうしても、描けないで苦心しているのです」と申し出た。すると、/「何時でもよろしい、持ってらっしゃい。見せて貰いましょう」
  
 中村彝が、柳敬助の転居したあと、新宿中村屋裏のアトリエに引っ越してくる直前の様子をとらえていると思われる。おそらく、高村光太郎が持参した何点かの滞欧作を眺めながら、3人で“批評会”を開いていたものだろう。このとき、小島が「一度批評してお貰いしたいのです」と言っている風景画は、おそらく「戸山ヶ原風景」か「落合風景」のいずれかだろう。
戸山ヶ原風景1911.jpg 戸山ヶ原(明治末).jpg
 小島は、作品が思うように描けないと、その絵を写生場所へ棄ててくるクセがあった。戸山ヶ原Click!では、何枚かのキャンバスを棄てたことを小島は自著で語っている。パリ近郊のクラマールでも、小島は描いた絵を棄ててきたので、小島アトリエの隣りの「化け猫」アトリエClick!を紹介された佐伯祐三が気づき、日本へと持ち帰って律儀に本人へ手渡しているようだ。

■写真上:小島善太郎が研究所で、彝と出会う少し前に描かれた中村彝『裸婦習作』(1908年)。
■写真中上は、フランスへと向かう船上で撮影された1922年(大正11)の小島善太郎。は、1909年(明治42)に制作された中村彝『自画像』。
■写真中下は、新宿中村屋で撮影された柳敬助。は、中村屋では巨大フナムシを飼ってるのかと思ったら、大正時代に焼かれたディスプレイ用の巨大ロシアパン。(爆!)
■写真下は、なんとか棄てられないで現存している1911年(明治44)制作の小島善太郎『戸山ヶ原風景』。は、ほぼ同じころに撮影された明治末の戸山ヶ原。


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「佐伯」だらけ大正の関西野球界。 [気になる下落合]

大阪豊中球場1915.jpg
 佐伯祐三Click!が、大阪府立北野中学校Click!の在学中に主将をつとめた野球部について資料を見ていたら、頭がこんがらがりそうになった。明治の末から大正中期ぐらいにかけ、関西の中学野球界は「佐伯」選手だらけなのだ。しかも、北野中学にかかわりの深いチーム、あるいは北野中学自体にも複数の「佐伯」という名前を見つけると、「またか・・・」と思う。近畿地方には、特別に「佐伯」という姓が多いのだろうか?
 まず、現在でも広く知られている有名な「佐伯」選手に、北野中学のライバル校だった市岡中学から早稲田大学へと進み、当時の早慶戦では花形選手のひとりになっていた佐伯達夫がいる。この早稲田大学のスター佐伯選手(商科)の人気がとても高かったせいで、深沢省三Click!は『野球界』を読んでいて北野中学の同姓だった「佐伯祐三」の名前が、ことさら目にとまり印象に残った可能性を否定できない。佐伯達夫は戦後、日本高等学校野球連盟の会長までつとめることになる人物だ。彼はのちに、北野中学の佐伯祐三も参加している「三高」の野球部が主催した、「御大礼奉祝記念中等学校連合」の野球大会Click!について、京都府高等学校野球連盟が1967年(昭和42)に出版した『京都高校野球史』の中で、次のように記述している。
  
 当時、京都では第三高等学校野球部主催で毎年十一月三日(明治時代の天長節)前後三、四日間、西日本中等学校野球大会を開催していたのであります。中等学校野球大会といっても、今日の大会のようにトーナメント式で最後の栄冠を争うのではなく、ただ参加チームを集めて数組の対抗試合を行なったもので、勝ったら記念に銀製のメダルを頂いたことを記憶しております。/その当時、関西での野球大会といえばこれが唯一のものでありまして、名古屋の強チーム愛知一中や四国の松山中学等の参加もあり、なかなか賑わったもので、私どもにはあこがれの大会でありました。
                                  (佐伯達夫「野球史の刊行を祝う」より)
  
京都三高グラウンド1916.jpg
 佐伯祐三が北野中学へ入学する前、佐伯達夫は市岡中学をとうに卒業していたので、ふたりが顔を合わせたことはないだろう。でも、佐伯祐三は早稲田で活躍をつづける佐伯選手のことを、よく知っていたに違いない。佐伯達夫は、新聞や雑誌でも頻繁に紹介される有名選手だった。
 また、佐伯達夫は1915年(大正4)に「全国中等学校野球大会」(現・全国高等学校野球大会)が誕生Click!するにあたり、朝日新聞社の社主・村山龍平へ強く働きかけた関西野球人のひとりでもあった。東京都高等学校野球連盟が1988年(昭和63)に出版した、『白球譜-東京都高校野球のあゆみ-』から引用してみよう。
  
 前記選手権大会史、柴崎八郎の「大会誕生の周辺」によると、大正3年から4年にかけて少なくとも、全国中等野球大会(ママ)を望む三つの線が村山龍平社長のところへ持ちこまれている。/一つは、中沢、福井両氏からの前出の線。もう一つのルートは、新設の豊中グラウンドを有効に使う方法を頭にえがいた箕生電軌の経営係、吉岡重三郎が、その職業的立場から持ち込んだもの。/さらに、直接、朝日新聞社へ「全国的な中等野球大会」を提案した彼らにヒントを与え協力をした佐伯達夫ら関西野球人や、全国各地の野球を愛する人たちの協力もあって、ついに大会が誕生することになったのである。 (同書より)
  
早稲田佐伯達夫選手1916_1.jpg 関西諸学校野球番付1915_12.jpg
 佐伯祐三が北野中学野球部で活躍した前後、最大のライバル校だった市岡中学の卒業生であり、すでに有名選手となっていた佐伯達夫のほかに、京都の平安中学にも佐伯選手がおり、また佐伯祐三が卒業した直後、北野中学にも佐伯選手がつづいて登場してくる。明治末から大正半ばにかけ、関西中学野球の強豪校には、絶えずどこかに「佐伯選手」が存在していたことになる。当時の野球好きならば、「佐伯」という姓の野球選手は非常に強く印象に残ったにちがいない。
 全国中等学校野球大会は、第1回大会が大阪の豊中球場で開かれているが、1924年(大正13)に大会の専用野球場として兵庫県西宮市に甲子園球場が建設されると、第10回大会より同球場で毎年開催されるようになった。
中学野球1.jpg 中学野球2.jpg
中学野球3.jpg 中学野球4.jpg
 佐伯祐三が、甲子園球場で同大会を観戦する機会は、生涯にたった一度しかめぐってこなかった。1923年(大正12)秋からの第1次滞仏より帰国した、1926年(大正15)8月の第12回大会のみだが、佐伯が夏に実家へ帰省していたとすれば、観戦しに出かけた可能性が非常に高い。

■写真上:第1回全国中等学校野球大会が開かれた、1915年(大正4)の大阪・豊中球場。
■写真中上:1915年(大正4)に第三高等学校(現・京都大学)の野球部が主催し、北野中学の佐伯祐三が京都五中と対戦した、1916年(大正5)ごろ撮影の「三高グラウンド」。
■写真中下は、1916年(大正5)に発行された『野球界』1月号の巻頭グラビアを飾った早大の佐伯達夫内野手。は、1915年(大正4)発行の『野球界』12月号に掲載された、京都大学が“勧進元”の西日本「関西諸学校野球番付」。佐伯祐三のいる北野中学は、西の前頭十五枚目だ。
■写真下:1915年(大正4)に豊中球場で行なわれた第1回全国中等学校野球大会の様子で、優勝したのは京都第二中学校だった。下右の写真で円陣を組むのが京都二中チーム。


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縮まらない佐伯像の齟齬やズレ。 [気になる本]

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 光徳寺とは家同士が親しく往来し、中津尋常小学校に入学したときから佐伯祐三Click!と親密にしていた、同窓生たちの貴重な証言が残されている。深谷三治という方は、中学校も佐伯と同じ北野中学校Click!へ進学している。彼はテニス部に入部し、同じ運動部だったせいか野球部Click!に属していた佐伯の様子も、かなり鮮明に憶えていた。1994年9月20日に発行された、北野中学校の同窓会報「六稜会報」No.28から引用してみよう。
  
 彼は高等1年修了後、明治45年北野中学に入学し、僕は翌大正2年に入学した。当時の北野中学は、阪急線を隔てて直線距離200メートル位南にあった。/彼は野球部に、僕はテニス部に入った。彼は、ピッチャーとしては素晴らしい強球(ママ)を投げるかと思うと、時にはホームベースにたたきつけるような暴投もした。バッターとしても大物を飛ばすかと思うと、大きく空振りすることもしばしばあった。(中略)後に聞いたことだが、バッターボックスに立った時、来る球をあれこれとゆっくり考える余裕などはない、ここぞと思った時に全身の力をこめて打つ。絵を描く時も、いろいろ構図を考えた時よりも、急に頭に閃いたインスピレーションにより一気呵成に描いた時の方が快心の作ができたということである。 (深谷三治「佐伯祐三のこと」より)
  
 このような、佐伯の少年時代の逸話や証言、身近にいた人々が記録した資料が出てくるたびに、ある書籍に描かれた「佐伯」像が浮き上がっていく。佐伯について、エピソードの“ウラ取り”や取材をすればするほど、その本の「佐伯」像との齟齬は埋まらないばかりか、ますます広がって乖離していくように感じるのだ。佐伯が東京へ出てきて川端画学校へと通いはじめて以来、東京美術学校からパリで死ぬまで親友だった、洋画家・山田新一Click!の証言を聞いてみよう。1980年(昭和55)に出版された、山田新一『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版)からの引用だ。
  
 しかし、こんな彼がまったく運動神経のない学生であったかというと、実はそうではない。殊に佐伯は北野中学校時代「ズボ」という渾名で、絵を熱心に描く以外は、勉強も運動もしない、佐伯が野球の選手であったということは嘘で、絶対にしたことはない、と書かれた書物(その著者は佐伯生存中、大変な親友であったように言っているが、最近会った佐伯の妻、米子の妹は、はっきりパリでも見なかったし、下落合時代の交友は全くなかったと断言していた)もあるが、これは思い違いで、勿論、その頃は昨今のようにプロやアマの野球熱の凄い時代に比べようもなかったが、学生野球は全国的に澎湃として湧き起り、ブームとなっていた。 (同書「野球」より)
  
 「書かれた書物」とは、1970年(昭和45)刊の阪本勝『佐伯祐三』(日動出版)のことだ。山田新一は、『素顔の佐伯祐三』の後半でもパリで佐伯が死ぬ直前の様子やエピソードについて、阪本の同書を名指しで明らかに誤っていると指摘している。山田は、佐伯が死ぬまで当のパリの“現場”で一緒にいたが、阪本は下落合でもパリでも、佐伯の周囲にいた事実をほとんど目撃されてもいなければ、また周囲へ「佐伯の親友」という印象も残していない。
山田新一.jpg 佐伯祐三手紙.jpg
 このほかにも、佐伯の身近にいたいろいろな方の証言や、残された資料類をていねいに見ていくと、阪本の記述はどこかが少しずつズレており、ときにはかなりおかしいと感じる。すでに、このサイトでも触れているClick!けれど、1926~27年(大正15~昭和2)現在の目白・下落合界隈の描写も、まったくこの地域や“現場”を知らないとしか思えない見当はずれな記述を繰り返し、「?」マークだらけになってしまうほどの錯誤が見うけられる。この地域の、基本的な知識さえ持ち合わせているとは思えない阪本が語る『下落合風景』Click!は、当時の実景を見たことのない(写真や資料類でしか知らない)わたしでさえ、大きな違和感を感じる内容となっている。
 阪本勝は、北野中学で佐伯と同期(30期)だった。(確かに同窓会名簿にも掲載されている) 帝大に通っていたときは、ほんの一時的にせよ上落合に「下宿」していたのかもしれない。また、佐伯が下落合にアトリエを建てる際、同期のよしみでその様子を見物に行っているのかもしれない。しかしながら、佐伯の「親友」となったのは、彼がパリで死去したのちのことではないか?
 念のため、阪本勝『佐伯祐三』の初版から引用してみよう。なぜ“初版”かというと、同書は頻繁に改訂が行われ、そのたびに記述や掲載図版が変わっているからだ。
  
 私は東大在学中、転々と下宿をかえたが、一時上落合で自炊生活をしていた。自炊生活といっても男一人でできるものではなく、だれかとの共同生活を必要とした。その相手は、仙台二高の先輩で、現在同志社大学総長の住谷悦治君の実弟、住谷磐根だった。彼は私よりもっと若い画家だったが、人柄のよい人物だったから、仲よく自炊生活をしたものである。ところがわが家の近所に佐伯が家庭をもったときいて驚いた。 (同書「新家庭」より)
  
山田新一「素顔の佐伯祐三」.jpg 坂本勝「佐伯祐三」.jpg
 「東大卒」と「兵庫県知事」、そして「佐伯の親友」をあちこちで連発するこの人物を、佐伯の親友・山田新一が強い違和感やいかがわしさとともにウサン臭く感じたように、下落合で佐伯の足跡をできるだけ丹念にたどろうとしているわたしもまた、まったく同様の感覚をおぼえるのだ。
 次回、記事にする予定でいるけれど、明治末から大正期を通じて関西野球界Click!は、「佐伯」選手だらけだったことがあった。もし、佐伯祐三の近くに身をおいていたとしたら、市岡中学から早稲田大学に進学したもっとも有名な「佐伯」選手(当時、関西の青少年たちにはヒーローだったはずで、戦後は全国高等学校野球大会の会長を長くつとめている)、対戦相手の平安中学にもいた同世代の「佐伯」選手、さらには野球部のキャプテンをつとめた佐伯祐三が卒業したあと、北野中学にさえ登場してくるもうひとりの「佐伯」選手と、この印象的な野球界の状況をまったく知らなかったらしい阪本は、いったいどの位置にいて野球好きな佐伯の「親友」だったというのだろう?

■写真上:カフェ杏奴でカレーを食べる佐伯一家・・・と書いても不自然には感じられない、非常にリアルなスナップ写真。第2次渡仏時にモランのホテルで食事をする佐伯祐三と米子、弥智子。
■写真中は、1980年(昭和55)ごろにパリで撮影されたらしい山田新一。は、山田新一が池袋1125番地に住んだころ、佐伯祐三が大阪中津から書いた手紙。
■写真下は、山田新一が書いた『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版/1980年)。は、佐伯伝としてよく読まれているらしい阪本勝『佐伯祐三』(日動出版/1970年)。下落合で佐伯を追いかけているわたしは、同書が不可解でしかたがない。


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おふくろには内緒。 [気になるエトセトラ]

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 子供のころ、「おふくろには内緒」のことがらがずいぶんあった。まず、まっ先に思い浮かぶのが駄菓子の買い食いだ。色とりどりの駄菓子が並ぶ店先は、子供のわたしには宝の山のように思えた。ニッキやハッカ、フルーツなどさまざまな香料が混じりあって漂う店先に立っただけで、えもいわれぬ幸福感に浸れたものだ。親が一緒だと、きちんした店で有名メーカーの菓子は買ってくれたが、駄菓子屋で買い食いすることは、当時の多くの家庭がそうだったように禁止されていた。
 禁止されればされるほど、ことさらやりたくなるのが男の子の心理だ。小遣いがもらえるようになると、さっそく近所に点在していた駄菓子屋へまっすぐに飛んでいった。おそらく、当時発売されていたありとあらゆる駄菓子を、友だちといっしょに頬ばっただろう。ややギャンブル性のあるクジ付き駄菓子へは、性懲りもなくいったいどれほど“挑戦”したことだろうか。でも、駄菓子を食べて満足し上機嫌で帰宅すると、おふくろに「舌を出してごらんなさい」と言われ、たちどころに買い食いがバレてしまうのだ。当時は、いまと違って天然色素など使われておらず、駄菓子の大半は人工着色料が使用されていた。だから、ベロが緑色だったり真っ赤だったり、あるいは真っ青だったりして証拠が残っており、「しまった!」と真っ青になってももう遅かった。
 小学生のころ、よくアルコールも口にした。家にしょっちゅう遊びにくる祖父Click!が、必ず葡萄酒(ワイン)を持参するからだ。そして、早朝に湘南海岸で行われていた地曳きを手伝っては、獲れたての魚を持ち帰り、それをサカナに朝から1杯やるのを楽しみにしていた。ときに、「飲んでみるか?」と、わたしにワインを舐めさせてくれた。祖父が好んで飲んでいたのは赤玉ポートワイン、今日でいうところの甘いデザートワインだ。「お母さんには内緒にな」と、ときどきおふくろの目を盗んでは飲ませてくれた。子供の舌には、甘くて苦い葡萄酒はあまりうまくは感じなかった。
 また、隣家へ遊びに行くと、よく梅酒に氷を入れて飲ませてもらった。隣家には、途中で引っ越してしまったのだけれど、小学校でひとつ下のKくんが住んでいて、おばさんがときどき自家製の梅酒を味見させてくれたのだ。こちらは、ワインとは異なりアルコール度数が高いから、さすがに飲みすぎると酔っ払ってしまう。ある日、わたしは調子に乗って、小さめのコップに1杯の梅酒を空けてしまい、足元が完全に怪しくなってしまった。そのまま家へ帰ろうとするのだが、脚が思うように動かない。路上で転び、玄関で転び、廊下で転んで、とうとうおふくろに真っ赤なゆでダコのような顔をして、“飲んだくれ”ているところを発見された。おふくろは、わたしを猛烈に叱ったあと、隣家へ抗議に行ったのはいうまでもない。小学2年生になったばかり、初夏のころの出来事だ。
赤玉ポートワインポスター.jpg 湘南海岸.jpg
 おふくろには内緒にしていたことを、こうして少しずつ思い出していくと、改めて祖父との間での内緒ごとが多かったことに気づく。グラマンの機銃弾も、「お母さんには内緒にな」でもらったものだ。撃墜されたB29の、ジュラルミン部品でこしらえた筆立ても欲しかったのだけれど、こちらは祖父が大事にしていてくれそうもなかった。その代わり、祖父の家に伝わる日本刀や槍の穂先は、ずいぶん触らせてくれた。これも、おふくろの目を盗んで、「お母さんには内緒にな」。
 小学校も高学年になると、さすがに宿題の量が多くなる。学校の勉強が大ッキライだったわたしは、これらの宿題をほとんどやっていったためしがない。でも、図画工作や自由研究は別で、好きでやることが多かった。また、おふくろが目を光らせている「夏休み帳」やドリルなどは、しぶしぶやっていくのだけれど、日々出される各教科の宿題はほとんどやらなかった。だから、翌日学校へ行くと必ずうしろへ立たされるか、頭にゲンコをもらうか、よく廊下へ座らされたものだ。「あら、いつも座らされてるのは同じ顔ぶれ!」といって、廊下を歩いていった女教師の顔をいまでも憶えている。そのときは口惜しく感じるのだが、それでつまらない学校の宿題をやるようになるかというと、ぜんぜんならなかった。中学生になっても、宿題を満足にやった憶えがない。
 おふくろに、「宿題は終わったのー?」と訊かれると、「みんな終わったよ~」とか「きょうはないよ~」と答えてたウソが、一気にバレるのが父母面談の日だ。担任いわく、「宿題をほとんどやってきません」、「あら」、「いつもなのです」、「まあ!」、「廊下で座ってる常連なんです」、「そんな・・・」、「なんとかしてください」、「は、はい!」。その日を境に、わたしの信用は地に落ち(前からとうに落ちてるのだが)、しばらく監視がきびしくなるけれど、そのうち再びズルズルとやらなくなっていく。中学生のころは、言ってもムダだと思っていたのか、あまり小言は言われなくなっていた。わたしが勉強を面白く感じはじめたのは、ようやく大学生になってからのことだ。
 そういえばもうひとつ、こっぴどく叱られた「おふくろには内緒」を思い出した。わたしが小学4年生のとき、近所にいじめっ子の中学1年生がいた。当時は、近所の子供ぐるみで遊ぶことが多く、当然、年齢も上下まちまちのグループだった。だから、そんな集団には必ずガキ大将的な存在がいて、それがときに年下の子たちをイジメては楽しむ傾向があった。その日、わたしは原っぱで野球をして遊んでいたところ、大量の砂をかけられてイジメられ、最後にはとうとう中学生と取っ組み合いになってしまった。そのとき、図体も小学生とは比較にならないほど大きな中学生に組み敷かれたわたしは、たまたま原っぱに落ちていたコンクリートブロック片の角で、中学生の頭を思いきりかち割ってしまったのだ。(いまでは素手で闘わなかったのを反省しているが) 顔全体から胸が真っ赤になるほど大量の出血をし、中学生が頭を抱えてもだえているところで、わたしは怖くなり自宅へ逃げ帰った。
原っぱ.jpg 戦前のユーホー道路1937.JPG
 当然、「おふくろには内緒」にしていたところ、わたしの衣服に付着していたおびただしい血痕を不審がられ、近所へ聞き込みに出ると「○○ちゃん(わたし)が○○ちゃん(中学生)の脳天をかち割った~!」とタレこむ友だちもいて、すぐに事件が発覚。大目玉をくらうとともに、さっそく中学生の自宅へ謝りに引っぱっていかれた。幸い頭蓋骨に異常はなく、頭皮を10針ほど縫うだけで済んだのだが、人を傷つけたということで、その日は夕飯が抜きだった。この中学生こそ、小雨が降る日に海辺の松林へバッテリーとアンプを持ち出し、しびれるエレキギターのパイプラインをテケテケテケと弾いていて、感電してしびれちゃったりする面白いお兄ちゃんなのだが、それはまた、別の物語。
 こうして思い返してみると、おふくろには内緒にしていても、あとになって大概のことはバレていることに気づく。おそらく、もっといろいろなことがバレていたのだろうが、あえて見て見ぬふり、見すごしてくれていたこともずいぶん多そうだ。親になって、改めて気づくことがたくさんある。

■写真上:小学生時代は、毎日のように通っていた駄菓子屋。
■写真中は、祖父がいつも飲んでいた赤玉ポートワインの最初期に制作されたポスター。は、当時はそこかしこで地曳き網漁が盛んに行われていた湘南海岸。
■写真下は、このようなフェンスがあってもよく乗り越えては遊んでいた原っぱ。は、1937年(昭和12)に撮影された「ユーホー道路」(湘南道路)のめずらしいカラー画像。正面に見えている山が高麗山と湘南平(千畳敷山)で、道の右手に見えているのがよく遊んだクロマツ林。もちろん、わたしが生まれるはるか昔の画像だが、物心つくころの光景はいまだこのような風情だった。

下落合が舞台のドラマ『さよなら・今日は』Click!の“予告編”、第19回に放映された「おふくろには内緒」です。おそらく、森光子に浅丘ルリ子、大原麗子の3人が共演したのは、この作品が最初で最後ではないかと思います。同作のDVD化を願って・・・。

(Part01)
(Part02)
(Part03)
(Part04)
(Part05)
(Part06)
(Part07)
(Part08)
(Part09)
(Part10)
(Part11)


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明治から大正初期の下落合風景。(2) [気になる下落合]

戸山ヶ原西端.JPG
 小島善太郎の自宅が、当初はどうやら下落合の西部、現在の中井2丁目の丘上か中腹にあった様子をご紹介Click!したが、1968年(昭和43)に出版された『若き日の自画像』(雪華社)には、明治期から大正初期にかけての下落合をめぐる興味深い記述がつづく。この時期、小島一家は目白崖線の下、妙正寺川の沿岸に引っ越している。
 大正期後半から昭和にかけて、落合地域には宅地化が進むとともに次々と銭湯がオープンするのだけれど、それ以前には銭湯ではなく風呂屋(田舎風呂)と呼ばれる施設が点在していた。銭湯のような造りの建物ではなく、ふつうの家や小屋を大きめの風呂場へ改造しただけのもので、付近で農作業を終えた農民たちが、汗や土埃を落とすために利用する風呂屋だった。寺斉橋の上流、バッケ堰の近くにあった水車場近くにも、そのような風呂屋が存在していた。ちなみに、下落合の氷川明神社に隣接して風呂屋が開設されていたのも、いつかご紹介Click!したことがある。
  
 水車場の半丁ばかり北の路端に田舎風呂があった。風呂場とは云え、旧水車場のものを土地の大工が借り受け家風呂を加え、風呂屋を開業したもので、一つの風呂に、漸く三人這入れると云う小屋がけのものだった。自分達も其処に浴りに行っていた。その風呂場を父が借りて移転したのは、兄の家初(ママ:出)後初霜を見た頃の事であった。行商の品物も出荷の少なくなる季節でもあり、父は営みやすい手内職とも考えたらしい。一方自分は、柏木に店を持つ父の知人だと云う八百屋に、一時の手伝いと望まれ、毎日自家から通うことになった。
  
 ここで、小島家は風呂屋を借りて一家で移り住んでいるようなのだが、このあとにも別の家と思われる記述が出てくるので、下落合内で何度か引っ越しを重ねていたらしい。柏木という旧地名が出てくるけれど、現在の東中野駅に隣接した地域のことだ。この時代、甲武鉄道(中央線)の東中野駅はいまだ柏木駅と呼ばれていた。水車場を改造した風呂屋の位置は、ちょうど稼働中の水車場から北へ50mほどのところにあったと記されているが、明治末の新井1/10,000地形図を参照すると、バッケ堰の下流で妙正寺川が二又に分かれ、大きく湾曲した流れが見えている。このどこかに、旧水車場が設置されていたのだろう。田島橋の南詰めに建てられた目白変電所Click!(1913年築)へと向かう、東京電燈・谷村線の高圧線鉄塔Click!がそろそろ建てられそうな時期の情景だ。
水車場1925.JPG 妙正寺川洪水1937.jpg
 小島はこの時期、今日でいうアルバイトを繰り返しては家計を助けている。父親が足にケガして働けなくなると、風呂屋の自宅から通える駅の踏み切り番のアルバイトをはじめた。小島はこの駅名を明らかにしていないが、その様子から大久保駅か柏木駅(東中野駅)ではないかと思われる。
  
 親子五人が米の無いことにおびえている。僕は米櫃の蓋の音を聞く度に不安というより恐怖を覚え心の底で叩かれている思いがした。何処か金のとれる所はないものかとあせった。父から恩顧を受けたという人が、駅の踏切り番ならあるが日給三十銭だと云った。手伝いの収入より三倍である。僕はよろこんだ。当時の鉄道員の体格検査を受けると、毎朝六時勤務という事になった。靴を買う金も無く草履で通うことにし、朝は暗いうちに出かけた。
  
 でも、せっかく決まった踏み切り番なのだが、わずか1週間でクビになってしまう。肋膜に罹患したことのある、小島の病歴がひっかかったのだ。その後、小島一家はさらに困窮していった。
 ようやく道が拓けたのは、大久保の中村覚陸軍大将邸へ書生として住みこみはじめてからであり、中村邸から谷中の太平洋画会研究所へ、つづいて日本美術院や溜池の葵橋洋画研究所などへ通っている。小島は、大久保の中村邸から戸山ヶ原へ写生に出るついでに、下落合の自宅へ頻繁に立ち寄っている。大久保から、のちに陸軍科学研究所や陸軍技術本部の施設が建設される、戸山ヶ原の西端(現・西戸山一帯)から落合地域へとつづく当時の風情を見てみよう。
晩秋1915.jpg 戸山ヶ原西端1918.jpg
  
 大久保から落合に通ずる戸山ヶ原の西端。道に面して牧場が楢林に囲まれ、畠から林越しに牛と牧舎が見える。その道を落合の方に向かうとだらだら坂で、東側は丘、丘につづいて杉林があり道が暗かった。丘には樫の木が鬱蒼として根張りを丘なりに張り合って見せ、西に沿って降りた地平には大欅が立ち並んで、間に檜、楢、杉等が麓まで続いている。欅も楢も霜に耐え兼ね、葉が吹く風に舞って灰色の裸木が親しい落着きを見せていた。/六部(ママ)ばかり描いた油絵をとも角母に見せ度と思い写生を終ると、そこから自家迄十分の道を急いだ。
  
 小島が描写しているのは、山手線をはさんだ戸山ヶ原の西側、大久保駅から百人町の北側に展開していた一帯の風景だ。「落合に通ずる」道とは、現在の小滝橋へと抜ける戸山ヶ原の西に接した南北道のことだろう。1918年(大正7)の新井1/10,000地形図を参照すると、この南北道沿いの戸山ヶ原には、柵で囲まれた乳牛を飼育する「東京牧場」Click!らしい記載が2ヶ所見られる。戸山ヶ原には山手線の東側、西大久保界隈にも牧場が点在していた。また、東に見える丘とは、山手線の西側に接した高田馬場駅の南に拡がる丘陵地帯のことだ。
戸山ヶ原(明治期).jpg 妙正寺川(大正期).jpg
 小島は、「戸山ヶ原風景」などとタイトルされた作品は別にして、落合地域を含めた雑木林あるいは丘陵地帯の風景画に、「落合風景」というような地名を含めた具体的な画名を付けていない。ほとんどの初期作が、一般的かつ抽象的なタイトルとなっている。1913年(大正2)に制作された『目白駅より高田馬場望む』というような画題のほうが、むしろ例外なのだ。

■写真上:ビルの建て替えなどで建物が解体されると、とたんに昔日の戸山ヶ原の風情が顔を見せる。旧・戸山ヶ原の西端、大久保駅の北西部にて。
■写真中上は、1925年(大正14)の新井1/10,000地形図改訂版に描かれた水車場あたりの様子。東京電燈・谷村線が引かれたあとの姿だが、妙正寺川の風情は変わっていない。は、1937年(昭和12)に撮影された洪水の妙正寺川。同川の整流化(直線化)工事を終えたあとで、寺斉橋から上流を撮影しているが、いまだ銭湯ではなく小規模な風呂屋の看板が見られる。
■写真中下は、1915年(大正4)制作の小島善太郎『晩秋』。は、1918年(大正7)の新井1/10,000地形図にみる戸山ヶ原西端。小滝橋へ抜ける道路に面し、牧場らしい木柵が見える。
■写真下は、明治期に撮影された戸山ヶ原。は、大正期の増水した妙正寺川。


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明治から大正初期の下落合風景。(1) [気になる下落合]

坂道1920.jpg
 1930年協会Click!を創立したひとり、小島善太郎Click!は生粋の地元・新宿っ子だ。淀橋で生まれ、1903年(明治36)に台風による大風で校舎が倒壊し多くの死傷者を出した、いまに語り継がれる淀橋小学校の遭難時にちょうど在学していた。その後、家庭の事情から下町の醤油屋へ丁稚奉公に出るのだけれど、少年期から青年期にかけての生活は悲惨きわまりない。
 酒乱の父親は、野菜の仲買いで当初は羽振りがよかったものの徐々に没落し、最後には足にケガをして動けなくなり家は極貧に陥る。自宅も淀橋から牛込、そして先祖の墓のある下落合へと、現在の新宿区内を転々とし、下落合では畑の畦道に落ちているクズ野菜まで拾って食べるような困窮生活だった。この間、遊び好きな兄は自宅の売り上げを盗んでは行方不明となり、妹は奉公先で男にだまされ誘拐されて殺害され、その後、間もなく父母を相次いで失っている。この時代のことを、小島はのちの自著で「煉獄の道」とも「苦悩時代」とも記している。
 新宿地域を転々とし、落合地域では同じエリアで何度か引っ越しもしているのだけれど、小島は自宅の住所をいっさい記述していないので、それがどのあたりなのかをピンポイントで特定できない。1968年(昭和43)に出版された『若き日の自画像』(雪華社)の表現から、どうやら小島の実家は目白崖線の斜面か丘上にあったらしい。寺の墓地ではなく、畑地が拡がる丘上のどこかに先祖代々の墓地が建立されており、自宅ともども下落合の高台にあった公算が高い。そして、小島の文章のあちこちには、明治末から大正初期の下落合風景が繰り返し登場してくる。
 明治時代のローカル表現なのか、あるいは小島独自の個人的な愛称なのか、彼は神田上水や妙正寺川のことを区別せず、総じて「落合川」と呼んでいる。妙正寺川のことを「落合川」と呼んだ、林芙美子Click!以来ふたりめの呼称でめずらしい。当時、関口の大堰(椿山荘付近)から下流は、いまだ神田川ではなく「江戸川」と呼ばれていた時代だ。また、「落合橋」という呼称も出てくるけれど、これがどの橋を指しているのかイマイチはっきりしない。明治の末ごろ、下落合の神田上水や妙正寺川には、わずか5つの橋しか架けられていなかった。東から西へ、田島橋Click!西ノ橋Click!寺斉橋Click!バッケ堰(堰上橋)Click!、そして水車橋の5橋だ。
田島橋付近水車場.jpg 寺斉橋付近水車場.jpg
 ちなみに、江戸期には「落合土橋」という表現がみられるのだが、これが現在のどの橋を指しているのかも曖昧だ。幕末に作成された「落合村絵図」では、田島橋、西ノ橋、そして寺斉橋の前身である土橋の3橋しか収録されていない。もちろん、補助45号線(聖母坂)の造成とともに、西ノ橋の西隣りへ設置された昭和初期の「落合橋」のことではない。では、小島善太郎が記録した明治末の下落合風景を、前掲の『若き日の自画像』(雪華社)から引用してみよう。
  
 落合橋を川に沿うて三、四丁上った所に水車場が在った。朽ちかけた横長の家だった。その中央を割った暗い中から水を垂らした大きな水車が絶えず廻っている。輪の板に苔が生えて湿った感じの上を水が乗って来ては落ちる。その度びに焦褐色をした水車に黄ばんだ濃い苔の上を水が白く光って滑る。木小屋の中では杵搗く音が絶えず、側で見てると水車が生きて感じられて面白く、数回来ては写生をした。
  
 「落合橋」から、川上へ300~400mほど歩いたところに水車場が設置されているのがわかる。当時、下落合エリアの神田上水と妙正寺川には、3つの水車場が記録されている。ひとつは、田島橋から大きく北へ蛇行する神田上水を、川沿いに200mほどさかのぼったところにあった水車場。この水車場のあたりは、昭和に入って神田川の整流化(直線化)工事の際、戸塚町と落合町との間で地境争いが発生した場所だ。下落合に古くから住む杉森一雄様Click!によれば、田島橋から三越染物工場前を通り水車場へと向かう途中には、イチョウの巨木が生えていたらしい。
目白駅より高田馬場望む1913.jpg 若き日の自画像1968.jpg
 もうひとつの水車は、寺斉橋から妙正寺川に沿って西へ300mほど上った、バッケ堰から150mほど下流に設置されていた水車場、そして下落合西端の水車橋から北へ50mほど入った、妙正寺川の支流に設置された水車場の3つだ。中井御霊社の南下、水車橋近くの水車は小島の記述と明らかに合わないので除外するとして、「落合橋」と記述している橋は、はたして田島橋と寺斉橋のどちらのことだろうか? 引きつづき、小島の文章を引用してみよう。
  
 水車場の西に六、七丈の丘があって、高台に樫の林があり、傍から茶畑が続いて、茶畑の間に柿の木があった。曇った日の暮れ方だった。霜を受けた柿の丸葉を黄赭に染めて煤んだ草の上に明るく落ち重なっていた。此処に佇んで眼前に展がった戸山ヶ原を見渡した。若杉の林や樫に挟まれた檪林は色付き欅は葉を落とし始め、それが原の入口を囲んでいた。視界を下にすると、裾を落合川が帯を投げたようにうねっては流れ、眼下に水車場の屋根が搗粉で白く染めて見せている。近くの枝に止まった鵙(もず)が慌ただしく甲高な声をして鳴いて静寂を破る。
  
 田島橋の西に丘はないが、寺斉橋の西には目白崖線が張り出し気味に見えている。また、丘上からの眺めで戸山ヶ原が拡がっている様子は、目白崖線の山手線寄り=下落合東部を連想するけれど、佐伯祐三Click!が描く大正末の二ノ坂(蘭塔坂)Click!同坂の上Click!からでさえ、早稲田方面や新宿一帯が見渡せるのを考慮すれば、その手前に存在する戸山ヶ原の風景は、下落合西部(現・中井2丁目)からの眺めと解釈しても不自然ではない。そして、なによりも特徴的なのは茶畑の存在だ。田島橋近くの水車場の北側斜面に茶畑は存在しないが、1910年(明治43)現在の新井1/10,000地形図には寺斉橋近くの水車場の北北西に、はっきりと茶畑が採録されている。
妙正寺川水車場跡界隈.JPG 神田上水.jpg
 小島善太郎の当初の自宅は、のちにアビラ村Click!とも芸術村とも呼ばれるようになる、下落合西部(現・中井2丁目)の目白崖線中腹あるいは丘上にあったと思われるのだ。

■写真上:下落合に通う坂道の可能性がある、1920年(大正9)に描かれた小島善太郎『坂道』。
■写真中上は、1910年(明治43)現在の早稲田1/10,000地形図に掲載された田島橋近くの水車場。は、同年の新井1/10,000地形図に掲載された寺斉橋近くの水車場。
■写真中下は、1913年(大正2)に制作された小島善太郎『目白駅より高田馬場望む』。は、1968年(昭和43)に雪華社から出版された小島善太郎『若き日の自画像』。
■写真下は、ちょうど明治期に水車場があったあたりの妙正寺川の現状。ふられた地番は上落合(三輪)850番地界隈で、のちに尾崎翠Click!林芙美子Click!が暮らした借家が建っていたあたりに相当する。は、大正末から昭和初期ごろに撮影された神田上水(神田川)。


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