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神近市子が観察する時雨の“座”。 [気になる下落合]

神近市子「わが青春の告白」1957.jpg
 1957年(昭和32)に毎日新聞社から出版された、神近市子Click!『わが青春の告白』の装丁が面白い。ひとつの時代が終焉し(敗戦で明治政府に由来する大日本帝国が滅亡し)、まったく新しい国家と時代を象徴するかのような写真だ。そこには、落合地域の細い道路をはさんで「隣人」同士だった“ふたり”が象徴的に写っている。
 ひとりは、1936年(昭和11)に竣工した帝国議会議事堂Click!(現・国会議事堂)であり、吉武東里Click!らの設計チームで造りあげた“作品”だ。関東大震災Click!で大手町の大蔵省Click!が壊滅したあと、しばらくは上落合470番地にあった吉武東里邸Click!で議事堂の設計業務が継続されている。そして、手前に写っているのが、1957年(昭和32)の当時は衆議院議員だった神近市子だ。ちょうど、市川房枝らとともに推進してきた売春防止法が、売春街(の利権)を残したくて反対する自民党を選挙に乗じて巻きこみ、ようやく前年に国会を通過させて施行される前後に撮影されたものだろう。
 一時期、議事堂を設計した上落合470番地の吉武東里Click!と、上落合469番地の神近市子は、細い二間道路をはさんで「隣人」同士だった。当時、神近市子夫妻の住んでいた家は、周囲の住民(というか当時の上落合の町会が主体だろう)から「アカの家」と呼ばれていたが、神近自身はかつて共産主義者だったことは一度もない。戦前は、共産主義者も民主主義者も、はたまた自由主義者もアナーキストも、政府に異議をとなえて反対する人物はすべて「アカ」、ないしは「非国民」と呼ばれたレッテル張りの時代だ。
 上落合の神近市子は、近くに住む佐多稲子(窪川稲子)Click!以上に、近隣からは冷たい目で見られていたのだろう。神近邸の南西側には吉武東里が大きな屋敷をかまえており、細い路地をはさんで東隣りの上落合467番地には古代ハスClick!で有名な大賀一郎Click!が、西隣りの上落合470番地には東京朝日新聞社の鈴木文四郎Click!記者と、三間道路をはさんだ上落合670番地の向こう隣りには古川ロッパClick!が住んでいたが、この中で神近市子と交流していそうなのは、彼女が元・新聞記者(東京日日新聞文化部)だった時代のよしみで鈴木文四郎ぐらいだろうか。
 さて、神近市子の『わが青春の告白』には、さまざまな人物たちが登場し描かれているが、ちょっと目についたのが長谷川時雨Click!の人物像だ。『女人藝術』Click!の編集部から、別の職業につくなら「救世軍の女士官」で、花にたとえるなら「うまごやし」などとされてしまった神近市子だが、彼女は『女人藝術』時代に長谷川時雨と周囲の女性たちを、ジャーナリストらしいクールな眼差しで観察している。
 同書に収録された「人の浮沈」から、少し引用してみよう。
  
 一枚の写真には、正面には今井邦子さんと長谷川時雨さんとが並んでいる。このふたりはハラでは仲のよい人達ではなかったが何か会合などの時にはきっと並ぶか近くにいる回り合わせになった。というのは、座席などということにやかましい人たちであったから、会の世話人は心得ていて、かならず上座とか目だつ席にふたりをつけさせたものである。今井さんはさすがにそうでもなかったが、長谷川さんは私どもを招待するような時でも、自分が正座につかれたものである。年齢が私どもとはかなり開いていたことと、長谷川さんのそれまでの環境――芝居、舞踊、ジャーナリスト関係の人たちの間では先生扱いをされてきた人であったから、その生活習慣には、下座にいることはなかった人と私どもは納得していた。が、それでもその変な作法にはクスクス陰で笑ったものである。
  
神近市子「わが青春の告白」奥付.jpg 神近市子.jpg
神近市子邸1936.jpg
 神近は、長谷川時雨が「先生扱い」されてきたので、その「生活習慣」からおのずと上座ないしは正座についてしまうのだろうとしているが、おそらくもっと以前からの、この地方ならではの根が深い習慣に気づかなかったのではないだろうか。特に長谷川家のように、娘を大切に育て上げてきた江戸東京の家庭では、“跡とり”としての女性はきわめて重要な存在だったろう。
 商家(というか武家でも見られた)では、たとえ男子が生まれたとしても、最初から跡継ぎとして育てられることはそれほど多くはなかった。いちばん仕事ができる男子(店舗なら店員で職人なら弟子、武家なら頭のいい二・三男などのいわゆる“やっかい叔父”候補)を、娘の婿養子に迎えて跡とりとすることが、江戸期の早い時期からこの(城)下町Click!では浸透し恒常化している。富裕な家庭で、なに不自由なく周囲から甘やかされて育った男子には、そもそも跡継ぎとして期待などしないという習慣は、明治期になってもさほど変わらなかった。また、男子が跡継ぎになったとしても、周囲の環境や状況から嫁いできた“上さん”がヘゲモニーを握るのが通常だった。
 この慣習は大江戸の町人に限らず、幕府の御家人や小旗本などの階層にも浸透しており、家庭内では代々女性がマネジメントやヘゲモニーを掌握するのが、江戸東京地方ではごく自然ななりいきだった。これは、薩長政府がいくら中国や朝鮮半島の儒教思想に由来する「男尊女卑」の規範を押しつけようとしても、彼らの地元ならともかく、足もとの江戸東京人にはほとんど浸透しなかったゆえんだ。
 いや、別に江戸東京地方Click!に限らず、古来からの原日本の性格が色濃く残る、あえて「東女(あづまおんな)」Click!などと呼称された古(いにしえ)の時代から、東日本ではあたりまえの風土や文化だったろう。ましてや、長谷川時雨が自身の起ち上げた『女人藝術』の集まりで上座ないしは正座につくのは、代々女性を中心にしてまわっていた社会環境や、身に染みていた生活習慣にしたがえば、なんら不自然でも特別なことでも、ましてや傲慢なことでもなかったにちがいない。
 また、こういう“親分肌”の女性は、江戸東京の(城)下町にはどこにでも必ずいるもので、別に長谷川時雨でなくても家庭や地域のマネジメントを一手にこなしている女性であれば、その中核の位置にいるのはなんら不自然ではない。この大前提となる江戸東京地方の(というか原日本の)基層・基盤Click!に由来する風土や文化が理解できなければ、長谷川時雨のような女性の感覚や姿勢、行動、思想などを理解することはむずかしいだろう。そういえば、手下(てか)を大勢使いながら、浅草寺の祭礼時に境内へ出る売(ばい)を一手に仕切っている、TVのドキュメンタリー番組にもなった女親分はいまだお元気だろうか?
青鞜社記念写真.jpg
女人藝術記念写真.jpg
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 ちょっと余談だが、いつだったか招待した女性といっしょに料理屋へ上がり、軸が架かる床を背に座らせようとしたら、一瞬ギョッとしてドギマギしていたのを思い出す。訊いてみたら、あんのじょう親世代が西日本方面の出身者だった。「招待してんのはこっち側だし、ここは江戸東京なんだから、中国や朝鮮半島のサルまね習慣など、とっとと棄てちまいな」といっても、上座には男が座るものと徹底して育てられた、子どものころからの哀しい性質(さが)なのだろう、しばらく居心地の悪い顔をしていた。江戸東京が地元の女性が同じ立場なら、スッと勧められるまま自然に上座へつくところだろう。
 また、『女人藝術』の集まりでは、目立ちたがり屋と酒の飲めない連中(れんじゅ)が前面に押し出されたようだ。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 席次などを気にしないようでやっぱり気にする人は、岡本かの子Click!さん、小寺菊子さんであった。これも私どもはたいてい上座のほうに押し出しておいた。林芙美子Click!さんが出席している写真には二枚とも前列にいる。これは偶然であろう。吉屋信子Click!さんも出ている写真では、たいてい前列である。うるさい人たちは上席のほうに追い上げておいて、私どもは末座の隅に陣どって勝手に楽しんだものである。/上座のほうはたいていお酒など飲めない人たちである。末座ではちょっぴりでも飲めないと幅がきかない。深尾須磨子、富本一枝、市川房枝、山高しげりなどという人なら、二、三杯の酒に別に迷惑がるようなことはない。その二、三杯の酒にごきげんになってユーモアやウィットがとび、ワヤワヤ、ガヤガヤはじめると、もうどこが上座かわからなくなる。話は末座が中心でしきりに進行してゆく。そして陽気な人たちがそこに集ってしまう。酒をのまない宇野千代Click!さんも、村岡花子Click!さんも来るし、小唄の春日とよさん、新派の河合の奥さん、舞踊の小山内登女さんもお愛想に来て下さるというふうである。
  
 この文章で、「下座」に集まって「ワヤワヤ、ガヤガヤ」やっている情景が、この地方の男たちの姿に近似しているだろうか。神近市子のように陽気な女性たちは、「下座」にいる男たちの輪に集まってきて飲みながら、いっしょに「ワヤワヤ、ガヤガヤ」するだろうし、酒が飲めない女性は自然にお開きとなって喫茶店にでも流れるか、家庭でもグループでも地域でも、明日の“仕切り”やマネジメントを気にかけなければならない“上さん”連中は、「しょうがないな」という目つきで「下座」を一瞥しながら、煙たがられないうちにスッと消えていなくなる(気持ちよくお帰りいただく)……。
長谷川時雨1931.jpg
女人藝術192807.jpg 女人藝術193107.jpg
 神近市子が記憶にとどめている『女人藝術』の情景は、女性たちだけの集まりだからというのではなく、この地方なら特に男女をことさら意識することなく、どのような集まりでも昔から起こりうる現象であり、たまたま「上座」へ女性が座る情景が、神近の故郷である九州ではめずらしかったせいで、「座」を気にする女性たちの記憶とともに、ことさら印象深く残ったのではないだろうか。

◆写真上:上落合つながりが面白い、神近市子『わが青春の告白』(毎日新聞社)の装丁。
◆写真中上は、同書の奥付()と著者の神近市子()。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「アカの家」と呼ばれていた神近市子邸とその周辺。
◆写真中下は、『青鞜』と『女人藝術』のメンバーが重なる記念写真。左から神近市子、平塚らいてう、岡田八千代Click!、富本一枝、長谷川時雨、生田花世。は、『女人藝術』の記念写真。左から奧むめお、帯刀貞代、神近市子、宮崎白蓮Click!、岡本かの子、長谷川時雨、平林たい子Click!、村岡花子。下は、中條百合子・湯浅芳子Click!帰国歓迎会の記念写真。前列左から2・3人目が中条百合子と湯浅芳子だが、前列の長谷川時雨と後列の吉屋信子が、こちらのカメラを向いて笑っているのがなんとなくおかしい。
◆写真下は、1931年(昭和6)の『女人藝術』3周年で撮影された長谷川時雨。は、1928年7月の『女人藝術』創刊号()と1931年(昭和6)7月の同誌3周年記念号()。

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